かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

日本の歴史9 「鎖国」という外交

2012年09月06日 | Books

最近、つらつら読んだ本の話をしばらく。



小学館の日本の歴史シリーズも、9巻まで来た。
本巻は、ちょっと異色。まず表紙がベンガラ?著者が、アメリカ人(イリノイ大学教授)。そして、歴史本というよりは、江戸時代の外交にトピックを絞った、テーマ本だ。

その異色な試みは、成功しているように思われる。とても、興味深く読めた。

江戸時代は、鎖国で、国を閉ざしていたと習った我々世代には、びっくりなのだが、今は、鎖国とは言っても、諸外国と、交流していたことが明らかになっている。鎖国という言葉自体、最初に使われたのは、19世紀初頭だ。松平定信が、過去を定める中で、当時の外交政策が、しくみとして認識された。そして、鎖国という言葉が、その後に生まれた。そもそも、最初の目的は、キリスト教への制限だった。

一番わかりやすいのが、先日、福岡市博物館でも見た、朝鮮との交流。朝鮮通信使が、日本に訪れ、江戸まで(時には、日光まで)行列している。徳川幕府が、国際的に承認されている宣伝材料に利用されたと考えられている。成立間もない、徳川幕府の権威づけだ。だから、いやがる朝鮮通信使をいろんなところに引きずり回すことになった。秀吉が朝鮮を攻めて、持ち帰った朝鮮人の耳や鼻を供養した耳塚まで連れて行ったというから、朝鮮人にとっては、噴飯ものだ。何故応じたかというと、清の脅威が迫っていたという事情による。

そんな中、明が清に攻められ、幕府に援軍派遣の要請もあったという。幕府は、検討したが、そうこうしている内に、明は敗れ、援軍派遣は、実現しなかった。

当時、江戸幕府の情報ルートは4つあったという。
一番ピンとくるのが、出島を経由したオランダからのルート。その他に、長崎にたびたび来訪した中国人ルート、琉球経由で、鹿児島に訪れた中国人ルート、釜山から、対馬に訪れた中国人ルートだという。中国との交流は、極めて盛んだった。

あまりにも盛んで、日本の銀、銅が、大量に流出したため、輸入を減らすため、国内の農業振興を図ることになったという。

日本に最初に訪れたヨーロッパ人は、ポルトガル人だが、その驚きは、想像を絶するものがあった。当時、世界は、三国(日本、中国、天竺)からなると思われていたのが、そのもっと先から、見たこともない人が突如現れたのだ。天竺でさえ、とんでもない遠くの世界だった。ザビエル達のことも、天竺人と呼んでいた。唐のかなたは、そん他遠方だった。

面白かったのは、毛唐の由来。毛唐は、欧米人を侮蔑する意味で、使われているが、元は、日本人と、朝鮮人、中国人を区別する約束事みたいなものだったという。絵を描くとき、日本人と、他国の人を区別するために、他国の人を毛むくじゃらに描いたのだ。
それが、段々今のような使われ方になった。

興味深かったのは、日本人の朝鮮人蔑視思想の原因。特に、明治に入ってからも、征韓論などが、すぐ議論されるベースは、松下村塾の教えにあるのだという。それだと、明治時代以降の、政府の、朝鮮に対する政策も理解できる(イエスという意味ではなく、その理由がわかるの意)。

最後に富士山の話。加藤清正が、朝鮮半島を経て、中国東北部まで、攻め入った時、そこから富士山が見えたという話が、事実化し、琉球から富士山を見た浮世絵などが好んで描から、その傾向は、明治時代まで続き、軍国主義に利用もされた。
富士山は、ヒンドゥ教、仏教のカイラス山みたいな存在だったのだ。

本書の切り口は、今の日本人の世界観を考える上でも、斬新だった。アメリカ人を著者に選んだ編集者に拍手である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする