今日は、梅雨模様。
東海以西は、梅雨入りしたが、関東も時間の問題。
国際フォーラムでの講演会に行った。
この建物、デザインは、いいのだが、使い勝手、維持費は?
講師は、高校の後輩。
地方紙で、論説委員などを務めて来られた論客だ。
地元愛あふれる講演だった。
そもとも貞山運河とは?
恥ずかしながら、知らなかった。
仙石線(仙台から海沿いを通って石巻を結ぶ)沿線の人にはなじみらしい。
伊達政宗の時代から、こつこつ築かれてきた、仙台の東側数十キロにわたる堀(運河)だ。
伊達政宗の所領は、元々米沢。
疎んじられ宮城県北部の岩出山に移されるが、関ケ原の活躍?で仙台に62万石を得る。
その後、農業に力を入れたため、100万石を超えた時期(幕府には、秘密)もあったという。
仙台は、新しい街で、まだ何もなかったから、街作りから、寺社作りまで、大量の木材が必要だったが、陸路では限界があり、南の阿武隈川の奥から木材を切り出し、阿武隈川と広瀬川(下流は、名取川)をつなぎ、そこから上流の仙台まで運んだ。
そのために作られたのが、木曳(きふね)堀で、貞山堀の始まり。
仙台での材木商や、木材の貯蔵地が、まだ町名に多く残っている。
次に作られたのが、鹽竈と、仙台の東にある港であった蒲生をつなぐ御舟入堀。
これは、伊達藩で作られた豊富な米を江戸に送るための運河。
江戸で消費されるコメの10%が伊達藩からのものだったという。
そのため、伊達騒動でも(樅の木は残った!)、伊達藩は、お取りつぶしになることはなかった。
そして、北では、米、生糸を運ぶため、北上川と南をつなぐ北上運河が作られた。
その後も、運河がつながり、宮城県の海側を南北につながる運河が作られた。
貞山運河と名付けられたのは、明治になってからで、伊達政宗の法名にちなむ。
大久保利通は、東北開発を富国強兵の重要施策とし、蒲生港を横浜並みの国際港にするべく、大工事を行った。
運河も大幅に拡幅され、大型船が、往復できるようになった。
生糸は、当時の重要な輸出品だった。
ところが、完成直後に津波を伴う大地震が発生し、港は、破壊され、再建されることはなかった。
その代わり、鉄道が建築され、海運より、陸運の方が、重視されるようになっていった。
全国的にも、優先的で、早かった。
貞山運河はその後も、地元の人に愛され、象徴的風景となり、シジミ漁なども行われた。
ところが、3.11で、貞山運河は、大津波で大被害を被り、周辺の街は、山側に移動させられる等、大きな変化が起きる。
自慢の松林もほぼ消滅した。
ただ、ここに来て、その土地を自治体が買い上げ、民間に安く貸し出し、様々なプロジェクトが、始動したのだという。
複合施設であるテラスや、フルーツパーク、温泉施設など。
それぞれの施設は、魅力的なものであるが、講師の目から見ると有機的なつながりに欠けるという。
そこで、船で移動できる手段などを提供し、エリア全体で、町おこしを行うプロジェクトを立ち上げた。
凄い情熱。
大学から首都圏に出て来た私と違って、ずっと仙台ベースで、暮らして来た方の地元愛。
仙台空港には、国際便も復活してきて、多くの外国人観光客が東北を訪れているが、仙台よりも、周辺県に行く拠点になっているという。
そこで、空港に近い貞山運河を、観光のスタート地点として、より魅力的なエリアにできないかというアイデアだ。
正直、街からは、やや遠く、元々物流のために作られた運河で、そこにどのような付加価値をつけられるかは、難しいような気もする。
アムステルダムや、ブルージュなどを見てきてしまっているから。
そのため仙台市内の川につなげようとしうプランがあったが、仙台市内の河川には、まだ3.11時のがれきが、川底に放置されたままで、まずはそこから手をつけなくてはならないという。
幸い、そのプロジェクトも動き出したという。
今後、仙台が、ますます魅力ある街に成長して欲しいと思った次第。