ベトナムの歴史の苛酷さは、私達の想像を絶する。何世紀にもわたって反復された中国軍の侵略と支配、十三世紀の蒙古軍の来襲、近代以降は、仏植民地支配、日本軍の進駐、そしてベトナム戦争―。直接外国軍の圧力がないときは、国内が分裂して内乱が相次いだ。この環境を生き抜くのは、並大抵ではない。
だから、上杉謙信が、敵に塩を送った美談も通じない。万が一、その塩で元気を取り戻した敵に逆襲されて、負けてしまったら、先祖にどういう風に申し開きをするつもりだと考えるのである。
そして、逆に勝つためには、敵を騙すことなど手段を選ばぬやり方を当然の如く納得する。ハノイ政権の伝説的戦略家ホー・グエン・ザップ将軍(元副首相兼国防相)が、仏軍を包囲し、明朝一斉砲撃を加えるという最後通告を出した。無用な殺生は避けたいとして、無砲撃地区を設定すると伝えた。そして翌朝、その無砲撃地区に真っ先につるべ撃ちを仕掛け、仏軍兵士を木っ端微塵に掃討したという類の話も、普通の話として動じない。
戦争、内乱が続く場所で生き、戦争を生活の一部としてきた人々が得た身の処し方の金科玉条は、乱暴な権力や金力が幅を利かせている状況下、下々のものは腹を立てても得にならないということを心に置くことである。そして人々が抱く価値観は、その日生き延びるためのことは、すべては善であるということになる。生きるという本質を貫くために腹を据えればたいがいのことは耐えられるのであろう。
子どもの教育も、生き抜くための知恵を身につけるために徹底的なスパルタ教育である。あざができるぐらいに体罰を施しながら、教育するのが当然であり、現在の日本であれば、児童虐待防止法により、虐待行為とみなされ、児童は保護されることになるやも知れない程だ。
今の日本は、子育て支援であれ、教育であれ、情報提供や、知識をつけることに終始して、生活で役立つ真の知恵を身につけることまでには至っていない状況である。体罰は許されるものではないものの、ベトナムの親が自身の感情をむき出しに子育てに体当たりして臨む姿勢は、学ぶところがある。
また、戦争のない日本人こそが、自由を謳歌すべきなのに、メランコリックな目で、毎日を送っている。方や、戦争の中生きるベトナム人は自由な発想を身につけ、自由な生き様を志向する人々であり、この事実も、ベトナムから大いに学ぶべき点である。
日本人に本当の自由はなぜ生まれないのであろうか。近代国家が全体や個人を守るために受け入れた制度や秩序が、非の打ち所ない基準となり、これらを参考に生きることにならされてしまった。その制度や秩序が、次第に絶対化され、独自の生命力、支配力を持ち始め、逆に人間の自由な心は発露の場を失い、萎えていったのである。
皆といっしょに、右向け右をしていれば、世間も人並みに扱ってくれる。余りうるさく異論を唱えるものがいたら、衆をたのんで押しつぶしてしまえばいい。しかも人々は、自分を自由だと感じることができる。権威は、自らの存在にとって無害の自由に対しては寛容だからだ。
自由を享楽し、保護され、しかも自らの判断、選択を下す必要はないのだから、これはこれで気楽な状況だろう。ファッショとしかいいようのないような、がんじがらめの組織社会、管理社会に生きながら、結構、満足して日々送っているのは、この気楽さを好む習性からなのかもしれない。いま一度、自由のあり方を、諸外国で、自由を求め生きた人々を振り返り見直す必要がある。区議である私の役目としては、組織社会、管理社会の矛盾を情報公開・開示し、多くの人へ気づきのきっかけを与えることだと認識している。
今後、日本がベトナムに対して取るべき姿勢は、この国の再建に手を貸すことであろう。1975年4月30日サイゴンが陥落し、北ベトナム臨時革命政府誕生。ハノイの体質を測定不能なほど硬化させ、戦後の苦境を切り抜けるために、ハノイは最大限に強権をふるい、国民に耐乏精神を注入しなければならなくなった。だが、超現実主義なベトナム人の体質、そして厳しい歴史を生き抜いた民族的英知などから推して見ても、ソ連、中国、ましてや北朝鮮のような硬直した社会主義国家にはならないはずである。
実際、1978年頃からベトナムの修正主義は始まってきた。ファン・バン・ドン首相は、党大会で「五年後には各家庭が、電気冷蔵庫やテレビを持てる生活を」と説いた。毛沢東の「能力に応じて働き必要に応じて生産を分配する」思想ではなく、「労働に応じて分配を得」、しかも人間の物欲を労働の刺激剤として是認する考えが出てきているのである。
海外援助する場合、私達日本人は、とかく自らの価値観や美学に照らしてこの地域を判断しようとしがちである。相手の仕事のペースの遅さや、いかにして今日を生き抜くかということを第一義的に考えてみた場合のささいな違約をあげつらって、「だから現地人はあてにならない」ときめつける。独りよがりの親切に対して型どおりの反応が得られないと、「人の善意に感謝するすべもしらない」と目くじらを立てる。
この辺の身勝手さから脱却しないと、これからもベトナムを含め東南アジアの国々やそこに住む人々との付き合いはうまくいかないであろう。異文化コミュニケーションの機会を学校教育の早い段階から取り入れる努力が必要である。
*『サイゴンから来た妻と娘』近藤紘一著 文春文庫 1978年
を参考にしながら、書きました。
よって、新しいデータをもとに、内容をさらに深めていく必要があると思っています。
なお、上述の本は、1978年に書かれてはいるものの、異文化を学ぶ点で、現在にも通じる名著だと思います。楽しく読めます。皆様にお薦めの一冊です。
だから、上杉謙信が、敵に塩を送った美談も通じない。万が一、その塩で元気を取り戻した敵に逆襲されて、負けてしまったら、先祖にどういう風に申し開きをするつもりだと考えるのである。
そして、逆に勝つためには、敵を騙すことなど手段を選ばぬやり方を当然の如く納得する。ハノイ政権の伝説的戦略家ホー・グエン・ザップ将軍(元副首相兼国防相)が、仏軍を包囲し、明朝一斉砲撃を加えるという最後通告を出した。無用な殺生は避けたいとして、無砲撃地区を設定すると伝えた。そして翌朝、その無砲撃地区に真っ先につるべ撃ちを仕掛け、仏軍兵士を木っ端微塵に掃討したという類の話も、普通の話として動じない。
戦争、内乱が続く場所で生き、戦争を生活の一部としてきた人々が得た身の処し方の金科玉条は、乱暴な権力や金力が幅を利かせている状況下、下々のものは腹を立てても得にならないということを心に置くことである。そして人々が抱く価値観は、その日生き延びるためのことは、すべては善であるということになる。生きるという本質を貫くために腹を据えればたいがいのことは耐えられるのであろう。
子どもの教育も、生き抜くための知恵を身につけるために徹底的なスパルタ教育である。あざができるぐらいに体罰を施しながら、教育するのが当然であり、現在の日本であれば、児童虐待防止法により、虐待行為とみなされ、児童は保護されることになるやも知れない程だ。
今の日本は、子育て支援であれ、教育であれ、情報提供や、知識をつけることに終始して、生活で役立つ真の知恵を身につけることまでには至っていない状況である。体罰は許されるものではないものの、ベトナムの親が自身の感情をむき出しに子育てに体当たりして臨む姿勢は、学ぶところがある。
また、戦争のない日本人こそが、自由を謳歌すべきなのに、メランコリックな目で、毎日を送っている。方や、戦争の中生きるベトナム人は自由な発想を身につけ、自由な生き様を志向する人々であり、この事実も、ベトナムから大いに学ぶべき点である。
日本人に本当の自由はなぜ生まれないのであろうか。近代国家が全体や個人を守るために受け入れた制度や秩序が、非の打ち所ない基準となり、これらを参考に生きることにならされてしまった。その制度や秩序が、次第に絶対化され、独自の生命力、支配力を持ち始め、逆に人間の自由な心は発露の場を失い、萎えていったのである。
皆といっしょに、右向け右をしていれば、世間も人並みに扱ってくれる。余りうるさく異論を唱えるものがいたら、衆をたのんで押しつぶしてしまえばいい。しかも人々は、自分を自由だと感じることができる。権威は、自らの存在にとって無害の自由に対しては寛容だからだ。
自由を享楽し、保護され、しかも自らの判断、選択を下す必要はないのだから、これはこれで気楽な状況だろう。ファッショとしかいいようのないような、がんじがらめの組織社会、管理社会に生きながら、結構、満足して日々送っているのは、この気楽さを好む習性からなのかもしれない。いま一度、自由のあり方を、諸外国で、自由を求め生きた人々を振り返り見直す必要がある。区議である私の役目としては、組織社会、管理社会の矛盾を情報公開・開示し、多くの人へ気づきのきっかけを与えることだと認識している。
今後、日本がベトナムに対して取るべき姿勢は、この国の再建に手を貸すことであろう。1975年4月30日サイゴンが陥落し、北ベトナム臨時革命政府誕生。ハノイの体質を測定不能なほど硬化させ、戦後の苦境を切り抜けるために、ハノイは最大限に強権をふるい、国民に耐乏精神を注入しなければならなくなった。だが、超現実主義なベトナム人の体質、そして厳しい歴史を生き抜いた民族的英知などから推して見ても、ソ連、中国、ましてや北朝鮮のような硬直した社会主義国家にはならないはずである。
実際、1978年頃からベトナムの修正主義は始まってきた。ファン・バン・ドン首相は、党大会で「五年後には各家庭が、電気冷蔵庫やテレビを持てる生活を」と説いた。毛沢東の「能力に応じて働き必要に応じて生産を分配する」思想ではなく、「労働に応じて分配を得」、しかも人間の物欲を労働の刺激剤として是認する考えが出てきているのである。
海外援助する場合、私達日本人は、とかく自らの価値観や美学に照らしてこの地域を判断しようとしがちである。相手の仕事のペースの遅さや、いかにして今日を生き抜くかということを第一義的に考えてみた場合のささいな違約をあげつらって、「だから現地人はあてにならない」ときめつける。独りよがりの親切に対して型どおりの反応が得られないと、「人の善意に感謝するすべもしらない」と目くじらを立てる。
この辺の身勝手さから脱却しないと、これからもベトナムを含め東南アジアの国々やそこに住む人々との付き合いはうまくいかないであろう。異文化コミュニケーションの機会を学校教育の早い段階から取り入れる努力が必要である。
*『サイゴンから来た妻と娘』近藤紘一著 文春文庫 1978年
を参考にしながら、書きました。
よって、新しいデータをもとに、内容をさらに深めていく必要があると思っています。
なお、上述の本は、1978年に書かれてはいるものの、異文化を学ぶ点で、現在にも通じる名著だと思います。楽しく読めます。皆様にお薦めの一冊です。
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