北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

報徳衰退の理由~実体と虚構

2005-10-25 23:45:21 | Weblog
ついに道北では雪の便りが聞かれました。まだ2,3回は降っては融けるということの繰り返しでしょう。

 初雪の朝の静けさや窓が不思議に明るい風情は雪国ならではの年に一度の感傷でもあります。さて、札幌の初雪はいつかな。

 今日は
■知識人たちの集い
■報徳が今日廃れた理由 の2本です。

【知識人たちの集い】
 ある懇談会に参加したメンバーが集まっての同窓会が開かれた。

 経済界、情報界、学会などの、北海道を代表する各界の若手知識人たちの集まりなので、そうそうたるものである。

 私自身はこの懇談会に参加していなかったので、会場の後ろからときどき拝聴していただけだったのだが、いつか直接お話をしたいものと、機会を伺っていたのだ。

 そしてその絶好の機会が訪れたので参加させてもらったというわけ。なかなか刺激的なお話が聞けましたぞ。

    *   *   *   * 

 会合では産学官の最先端技術の利用に奔走されているAさんと隣り合わせになった。

早速「車にカーナビは着いていますか?」という話になり、「私の車は古いのと、カーナビに頼ると野生の勘が失われるような気がするので、つけていないのです」と答えると苦笑いされた。

「確かに個人の好みによって、カーナビそのものを嫌う人はいるかも知れませんが、こういう技術は確実に世の中を便利にするものなので、嫌うだけではいけませんよ」と諭される。そのとおりだろう。

「カーナビは現在どれくらいの範囲で現在位置を特定出来るようになったのですか?」と訊くと
「そうですね、今で2.5センチと言われていますが、準天頂衛星システムが始まると2センチになると言われているようです」

「準天頂衛星システムとは何ですか?」
「現在我が国で使っているカーナビはアメリカの衛星を使わせてもらっているGPSシステムを使っているのですが、こういう外国の施設に頼るということでは情報の確実性に問題があると言う事で、自前の衛星を打ち上げてより精度の高い情報提供をしようということになっているのです」

 Aさんによるとそれが「準天頂衛星システム」なのだそうで、これだと複数個の衛星が見えないところでは不安定になる現在のシステムの弱点をカバーすることができるのだそうだ。

 こういう優れた技術が陰で我々の回りの便利を支える事になる。

 まだこの衛星は打ち上げられていないのだが、やがて日本をさらなる情報先進国にする事だろう。

    *   *   *   * 

 もう一人は「今週末から海外へ行くのに、100円ショップで使い捨てのつもりで下着を買いました」というBさん。

「100円ショップの品揃えに改めて驚きました。ワンタッチ傘まであるんですよ」
「そういうことに対して、何か自分の野生の勘みたいなものが『何かが間違っている』と教えてくれませんか?」

「分かります。いつかこういう世の中は壊れるのではないかと怖くなります。資本主義もいつかは崩れるのかも知れません」
「私は単純な末世論には与(くみ)しませんが、自分たちの現実感と違う経済にあるという思いを常に持っている必要がありそうですね」
 そんな会話をした。

    *   *   *   * 

 ある意味では自分の理解を超えたところに現実があるのだけれど、自分の理解を超えているという点で我々は「虚構の世界」に生きているような気もする。

 この「虚構の世界にいる自分」を自覚しつつ、実体としての基礎的・基本的な道理が分からなくては現代もこれからも時代も生きてゆけないのではないかとつくづく思った。

 実体が先で虚構が後か、虚構が現実で実体は幻想なのか。その両方に通じていなくてはならないのだろう。

 教育をする事が難しい道理である。
 

【報徳が今日廃れた理由】 
 二宮尊徳は江戸末期に小田原から北関東にかけて活躍した農民救済コンサルタントである。

 この報徳思想は昭和の30年くらいまでは北海道でも各地の報徳社として活動していたが今日は全くと言って良いほど廃れてしまった。

 その理由をつくづく考えていたのだが、上記の「虚構と実体」ということを考えて、やはりその原因は江戸時代と今日とがかけ離れた社会になったということなのだろうと思った。

 基本的に江戸時代はまだ世の中が「食える、食えない」というレベルの実物経済社会であったのだ。だから「十文節約すれば十文分の蓄えが出来、十文使えば十文蓄えが減る」ということに疑いの余地はない大道であったのだ。

 それが今日、食える食えないというレベルの実物経済から出発して、食える事の意味や内容、その多様性に至るまで「食える」という実体から派生した虚構の世界がとても無視出来ないものになってしまっているのだ。

 だからたった一日の株のもうけで一生米が食えるだけの財産を手にする事も可能なような時代にあっては、ちょっとした変化が大きな結果になって跳ね返るという虚構の上に成立していると言える。

 衣食住があるだけからその多様性という虚構もが実体として振る舞うようになったのが現代なのだ。

 そのことをよく踏まえた上で、なお一人の自分になったときには、決して間違いのない「至誠、勤労、分度、推譲」という徳目の正しさを自覚すべきだし、他人にも説き続けなくてはならないのではないか。

 この実体と虚構の差こそが今日の報徳思想衰退の最大の要因ではなかろうか。我々はよく考えなくてはならない。
 

    *   *   *   * 

 最近同僚のS君がおもしろがってネタを良く提供してくれるようになった。

 今日くれたのは朝日新聞の東京版から、昭和45年の記事を見て今日何を思うかというコラムニストの文章。
 
 そこに登場していたのはなんとバラバラに壊された二宮金次郎の銅像の写真であった。

 記事の中の先生のコメントとして「学校を建て替える際に解体屋が壊していったのだけれど、教育委員会には修復する予算がないとのことで、直せない。今日薪を背負う事もないし、本を読みながら歩けば車にひかれるので子供に手本にしろとも言えない」という言葉が紹介されていた。

 昭和45年の日本の一断面のできごとではあるけれど、このころにすでに実体と虚構の乖離が始まっていたと言える証かも知れない。

 虚構に生きる我々がときどき思い出すべき命の原理みたいなところに、様々な宗教や思想のエッセンスがありそうだ。

 我々が虚構に生きているという現実感を持てばなお、宗教や思想の意味が生きてくるに違いない。
 「慎み深くあれ」などというのも、そんなことの一つである。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする