秋晴れの日が続いて気持ちがよいですね。
さて今日は
■「二宮翁夜話」のご紹介 の1本です。
【「二宮翁夜話」のご紹介】
先日(財)北海道報徳社を訪れた際に、「報徳の本で『二宮翁夜話(やわ)』はありますか」とお尋ねして、新書を上下巻の二冊入手した。
二宮翁夜話(以下「夜話」)の原著者は福住正兄(ふくずみまさえ)。文政2(1824)年、相州片岡村(現在の神奈川県平塚市片岡)に大沢家五男として生まれ、はじめ大沢政吉、後に福住家に入って九蔵、家督を譲った後に正兄と名乗った。
若い頃に人生の志が定まらずに、父に相談したところ「真に世の中のためになろうとするならば国を救う医者になるのがよいだろう。幸いに今、国を直す大医であらせられる二宮先生がおられるので、入門して勉強するがよい」と教えられ、著者の一生が決まったと言われる。
振り返ると一生が決まった瞬間というときが、きっとあるものだ。
ちょうどこの頃というのは、片岡村が天保の飢饉で疲弊した後の天保9年に、小田原出張中の二宮先生の面接指導を受け、ただちに大沢家を上げての救急仕法を講じていたころで、著者が志を立てた天保13年というのは、その仕法が花開かんとした頃なのだ。
二宮尊徳の指導の素晴らしさが花開こうとしていたころで、正兄の父の助言も確信に満ちていたことだろう。
最初なかなか入門は認められず、認められたのは著者22歳、先生59歳の時であった。
当時の二宮塾には学課はなく、二宮先生が弟子にまともに何かを教えてくれるという姿ではなかった。
しかし「ひそかに思考するに、この塾にあっては、先師のおん行いを見てそれに習わんと心がけ、先師の御説話を承りてよく記憶する(こと)と、粗食粗衣と、朝の早起きと、夜遅く寝るとの修業なり(福翁昔物語)」と悟ってからは身をもって修業に専念したということである。
その後(当時まだ大沢であった)著者27才の時、兄が婿入りの結婚話を持ってきて退塾の願いにやってきた。
婿入り話は二件合って、一つは小田原の富豪、もう一つは箱根湯本の家が傾きかけていた福住家であった。著者は即座に衰運の家を選び、12月に福住家を継いだのであった。
その際に二宮先生からは「…そなたが国へ帰って温泉宿を渡世とするならば、これを『己を恭(うやうや)しく正しく温泉宿をするのみ』と読んで、生涯忘れるでない。こうしたら利益が多かろうとか、ああしたら利得があるだろうなどと、余の流弊に流れて、本業の本理を誤ってはならない。己を恭しくするとは、自分のみの品行を慎んで、堕落しないことをいう。その上に、業務の本理を誤らず、正しく温泉宿をするのだ、正しく旅籠屋をするのだと決意して肝に銘じておくがよい…」という訓話を与えられたのであった。
福住家を継いだ著者は自家衰運の原因をつきとめて、分度を確立する一方、正直と安値と貴賤の差別をつけない報徳式営業法をとって、勤勉に終始したため好評は一時に現れたという。
著者は多くの著作を世に残したが、なかでも最大のものは二宮翁夜話である。
その卓抜した内容と易しい表現がこれを読んだ多くの人の心に与えた影響は大きなものがあるのである。
まさに現代にも通じる名著である。
(参考:訳注 二宮翁夜話 福住正兄原著、佐々井典比古訳注 現代版報徳全書)
さて今日は
■「二宮翁夜話」のご紹介 の1本です。
【「二宮翁夜話」のご紹介】
先日(財)北海道報徳社を訪れた際に、「報徳の本で『二宮翁夜話(やわ)』はありますか」とお尋ねして、新書を上下巻の二冊入手した。
二宮翁夜話(以下「夜話」)の原著者は福住正兄(ふくずみまさえ)。文政2(1824)年、相州片岡村(現在の神奈川県平塚市片岡)に大沢家五男として生まれ、はじめ大沢政吉、後に福住家に入って九蔵、家督を譲った後に正兄と名乗った。
若い頃に人生の志が定まらずに、父に相談したところ「真に世の中のためになろうとするならば国を救う医者になるのがよいだろう。幸いに今、国を直す大医であらせられる二宮先生がおられるので、入門して勉強するがよい」と教えられ、著者の一生が決まったと言われる。
振り返ると一生が決まった瞬間というときが、きっとあるものだ。
ちょうどこの頃というのは、片岡村が天保の飢饉で疲弊した後の天保9年に、小田原出張中の二宮先生の面接指導を受け、ただちに大沢家を上げての救急仕法を講じていたころで、著者が志を立てた天保13年というのは、その仕法が花開かんとした頃なのだ。
二宮尊徳の指導の素晴らしさが花開こうとしていたころで、正兄の父の助言も確信に満ちていたことだろう。
最初なかなか入門は認められず、認められたのは著者22歳、先生59歳の時であった。
当時の二宮塾には学課はなく、二宮先生が弟子にまともに何かを教えてくれるという姿ではなかった。
しかし「ひそかに思考するに、この塾にあっては、先師のおん行いを見てそれに習わんと心がけ、先師の御説話を承りてよく記憶する(こと)と、粗食粗衣と、朝の早起きと、夜遅く寝るとの修業なり(福翁昔物語)」と悟ってからは身をもって修業に専念したということである。
その後(当時まだ大沢であった)著者27才の時、兄が婿入りの結婚話を持ってきて退塾の願いにやってきた。
婿入り話は二件合って、一つは小田原の富豪、もう一つは箱根湯本の家が傾きかけていた福住家であった。著者は即座に衰運の家を選び、12月に福住家を継いだのであった。
その際に二宮先生からは「…そなたが国へ帰って温泉宿を渡世とするならば、これを『己を恭(うやうや)しく正しく温泉宿をするのみ』と読んで、生涯忘れるでない。こうしたら利益が多かろうとか、ああしたら利得があるだろうなどと、余の流弊に流れて、本業の本理を誤ってはならない。己を恭しくするとは、自分のみの品行を慎んで、堕落しないことをいう。その上に、業務の本理を誤らず、正しく温泉宿をするのだ、正しく旅籠屋をするのだと決意して肝に銘じておくがよい…」という訓話を与えられたのであった。
福住家を継いだ著者は自家衰運の原因をつきとめて、分度を確立する一方、正直と安値と貴賤の差別をつけない報徳式営業法をとって、勤勉に終始したため好評は一時に現れたという。
著者は多くの著作を世に残したが、なかでも最大のものは二宮翁夜話である。
その卓抜した内容と易しい表現がこれを読んだ多くの人の心に与えた影響は大きなものがあるのである。
まさに現代にも通じる名著である。
(参考:訳注 二宮翁夜話 福住正兄原著、佐々井典比古訳注 現代版報徳全書)