北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

経済誌訪問と道新取材

2005-10-14 23:32:11 | Weblog
 自分の席になかなか着いていないものだから、同僚や課の皆さんにもいろいろと迷惑をかけてしまっている今日この頃です。

 席にいない時に有効なのがメールなのだが、これもまた処理しきれないというていたらく。どうしたらよいものか。

 さて今日は、
■某経済新聞社をお訪ねする
■「おやじの会」への新聞取材を受ける の1本です。


【某経済新聞社をお訪ねする】
 同僚の一人に誘われて某経済新聞社を訪ねる。

 この新聞では最近紙面で2030年の北海道像をシリーズで描いている。しかしそこに描かれているのは人口減少で現在とは様相を異にするやや暗い北海道の姿である。

 現在次期北海道の長期計画策定を進める上で大変興味を引かれる紙面なので、是非とも紙面を書いている方にお会いしてみたいと思ったのである。

 会社をお訪ねすると、担当されている編集部長さんと記者の方にお会いする事が出来た。

 訪問の趣旨を説明して「予想の姿が大変さを前面に出しているようですが…」と水を向けると、編集部長のMさんは開口一番「いろいろご批判もあるでしょうけれど、敢えてそれを覚悟して、『これから大変になるんですよ』という意味合いの強い内容にしてあります。私も各種の講演会でお話をする機会も多いのですが『北海道にはこんな素晴らしい点があります』などと持ち上げて安心させてみたところでそんなものは2時間しか持たないのですよ」と厳しい話から始まった。

「2030年には北海道の人口は今よりも100万人減るんです。甘く考える人は75万人くらいの減にとどまるとか言うけれど、その数字の幅は別にして、そういう人口減少という確実に訪れる現実を見てこれからの事を考えなくてどうするのですか。今と同じことをしていれば、今と同じ社会を維持する事はできないのですから」

 こちらからも「我々もそういう社会のトレンドを考慮した次期計画づくりをしようとしています。貴社の視点は大変参考になる視点が多いのでこれからもいろいろと情報交換の機会をいただければとおもいます」とお願いをした。

 すると「北海道の存在意義が難しくなりましたね。冷戦時代は北方からの守りという位置づけが明確でしたから、国としても多少の苦労はあるけれどとにかく支えなくては仕方がない、ということでしたからね。しかし北からの脅威が大きく減った今日、『まだ支えなくてはならない意味は何なのか』『北海道は投資してくれたら、国にどういう面でどれくらいの貢献が出来るのか』という事をアピールしなくてはならないでしょうね」

「食料と観光ということは盛んに言われ続けていて、そのことはあると思っていますが…」

「確かに。食糧安保や観光ということもあるでしょうけれど、もっと視点を大きく見てはどうですか?津軽海峡などは世界でも有数の重要な水路ではありませんか。防衛上も重要な位置づけですが、これだけ多くの貨物や船がここを通っているのに、津軽海峡沿いのあり方などはお粗末なのではないでしょうか」

 なかなかに舌鋒鋭く、ぬるま湯的な「なんとかなるでしょう」といった楽観論を戒める気持ちが伝わってきました。

 人口減少は、もう次の子供を産む世代自身の数が少ないためにそこから生まれる子供の数は自動的に減る事になっている。
 これは日本の社会として人口減少という現象はすでに「ビルトイン(組み込まれている)されている」と言うのだ。

 トータルでの自然減は確実に起こる。そしてそのショックを少しでも和らげるための備えが必要だ。

 その備えを「インフラ」という言い方で表現するならば、道路や施設のような形で受け止めるということもあるだろうし、もう一つ「制度インフラ」として受け止める事も必要なのだ。

 年金や医療保険の問題がそれだ。「痛みを伴う」という言い方を恐ろしく、おぞましく思うだけではこれからの時代に耐えられないのは火を見るより明らかなのであって、自らが変化するという形でこれを乗り切らなくてはならないのだ。

 社会や子孫から貪(むさぼ)る姿勢を改めて、自分のもつ何かを「他に譲る」という気持ちを大事にしたいものだ。

    *   *   *   * 

 この紙面の内容はいずれ本になるそうです。またそれとは別に、夜にでもさらなる情報交換をしたいところです。よろしくお願いします。 


【「おやじの会」への新聞取材を受ける】
 私は現在琴似中学校の「おやじの会」で副会長をしているのだが、会長のMさんから「小松さん、北海道新聞から取材依頼が来ているのですが同席してもらえませんか」という依頼があって、夜に中学校へ向かう。

 取材に来てくださったのは道新のOさんという割とハンサムな記者さん。学校側は教頭先生と担当のI先生、それにおやじの会からは会長と私ともう一人の副会長のKさんが対応した。

 質問の方は一般的なものが多かったけれど、「どういう活動をしていますか」、「きっかけはなんでしたか」、「参加してみてどういうことを感じますか」というような事から始まった。

 このメンバーの中では一番の古株が私なので、つい発言が多くなってしまった。しかし理論的裏付けを説明するのは多分私の役回りなのだろうと思うので、何を聞かれてもお答えが出来る。

 活動で一番特徴的なのはスポーツクラブとの親善対決だろう。これは学校の先生も非常に協力的にやってくださっているのでうまくいっているが、父親が子供たちと対決する事でお互いの力量を計る良い機会となっている。

 同じ副会長のKさんはバドミントン対決で一年生の息子さんと対決したのだそうで、「勝ち負けはどうでしたか?」という問いかけに「まだあっさり勝ちましたよ」と笑顔。

 会長のMさんは「おやじの会と対決して勝つチームならば全道大会へ行けるクラスのチームですね。そういう意味では良い試金石になっているのじゃないでしょうか」と笑う。

 父親が学校に関わるという事はいざ始めようと思うとなかなかきっかけがないものだが、こういう形ならばごく自然に学校で活動が出来るし、それで父親どうしが知り合えるというのも良い。

 活動は一部の人たちの内輪のサークルになっては行けないので、参加者はいつもガムテープに名前を書いて身体のどこかに貼り付ける事になっている。名前を明らかにして、名前で呼び合って、そして覚えるのが知り合うということの基本なのだ。

 
 記者さんは「会を始めて何年か経ってみて、子供たちや学校に変化は見られますか」ということを盛んに訊きたがった。しかし、我々の活動があったからこそ何かが変わったなどという大それた事はないのだと思っている。

 大事な事は、そういう父親が多く参加する事で地域社会の知り合いネットワークが強化されるだろうという希望だ。
 散歩していて、すれ違う人に知人が多いということは素晴らしいという事だ。

    *   *   *   * 

 学校側もおそらく最初の頃は父親の会に戦々恐々としていたことだろう。先生という人種はお母さんとは話し慣れているが父親とは話し慣れていないものなのだ。

 ましてそれが団体ともなると、ビビルのも無理はない。

 おやじの会との窓口になってくださっている担当のI先生も、「私も去年から琴似中学校へ来ましたけれど、最初に総会に出席するときは本当に緊張しましたよ。どういう会なんだろう、真面目な会だったらうまく話せるかな、と。でも一度出てみれば、和やかな会なので安心しました」と笑う。

 我々の会は「政治的に中立を保つ」ということを信条としている。だからこの会へも「○○に反対しませんか」といったような提案や誘いもあったけれど、「もしそういう活動をしたければ、この会とは別な形でやってほしい。私たちの会としてはその活動に参加しません」という姿勢を貫いてきた。
 
 そういうことが何年か続いたことで、少しずつ先生たちの信頼も勝ち得てきたのだと思うのだ。
 
 中学校でのおやじの会の活動が難しいのは、中学生の父親の時期が人生の中で一番忙しい時期に重なっているということや、中学生という多感な時期には親を疎ましく思いがちだということがあるだろう。

 しかしそれだからこそ、そのことを諦めるのではなく少しの時間を子供たちのために「譲る」気持ちが大事なのだ。

 忙しい父親たちの武器はITだ。月に一度は役員が顔を合わせる事にしているが、それ以外のやりとりはメーリングリストで情報交換が出来る世の中は素晴らしい。

 ITに詳しい親父がいるのも強みである。多種多様な異業種の友達は本当に貴重な財産だ。

    *   *   *   * 

「学校がどういうところか分かるだけでも、子供との会話のネタになりますよ」とは副会長のKさん。

 もっと会の存在を知らせる努力も必要だ。新聞記事もそう書いてくれればよいのだけれど。

 ちなみに紙面は来週火曜日の朝刊の「学園広場」という紙面だそうです。

 どういう風に書いてくださるでしょうか?ちょっと楽しみ、ちょっと不安。
コメント
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