北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

特待生問題と「空気の研究」

2007-05-04 23:38:23 | 古典から
 野球特待生の洗い出しの問題が世間をにぎわせています。

 特待生は金品の提供に当たるとのことで、違反していた学校では特待生をのぞいて春季大会に臨むか、そんなことをしたら誰が特待生だったかが特定されてしまうという判断から学校として出場を辞退するなど対応が混乱しています。

 今までは実質認められていたことが突然性急に厳しくなると、世の中に混乱と不安定を招きますね。「こんなに蔓延していたとは!」と驚いてはいますが、案外「想定の範囲内」なのかもしれません。

 私は、近代法の原則は「決まっていない前のことにはさかのぼってまで罪を問わない」ということなので、今回も今から駄目にして、これまでは不問にすればよいのに、と思っていたら、もともとがいけないと決められていたことだったのですね。

 もともと駄目とされていたのに、独特の世界でなんとなくお目こぼしをしていたわけで、それが突然正論が声高に叫ばれるようになると、やはり面と向かって文句も言えないものです。

 それにしても、もともと駄目なことが、日本人お得意の「ホンネとタテマエ」論から少しくらいの違反は見逃すという風にタガがはずれると、どこまでのエスカレートするのがまた情けないところ。

 このあたりのきわめて日本的な風景については、山本七平さんの「空気の研究」の中に面白く書かれています。

 「・・・従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断の基準である・・・」

 今回の特待生問題では、論理的には間違っていたとわかっていつつ、どこでもやっているんだから強いチームを作るためには仕方ないだろ。『空気読めよな~』というように、それまでは高校野球の世界の空気が許していたのでしょうね。

 このような非常に大きな「空気の存在」に対して山本七平さんは、「・・・だがわれわれの祖先が、この危険な『空気の支配』に全く無抵抗だったわけではない」としています。

 「少なくとも明治時代までは『水を差す』という方法を、民族の智恵として、われわれは知っていた。従って『空気の研究』のほかに『水の研究』も必要なわけで、この方法についてもだいぶ調べたのだが、この『水』は伝統的な日本的儒教の大系内における考え方に対しては有効なのだが、疑似西欧的な『論理』には無力であった」としています。

 空気と水。今の高校野球の現実や、スポーツプロの若年化などさまざまな問題を論理がどのように解決してゆくのかに注目したいものです。

 自分たちの回りにも空気が支配する世界って多いもの。

 自分には「水を差す」勇気があるでしょうか。
コメント (2)
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