今日の午後は、3ヶ月前から依頼を受けていた防災の講演会でした。
北海道のときはそれほどでもなかったのですが、4月から変わった今の立場は都市防災を公園の立場から考えるというものなので、これは非常に大切なテーマとなりました。
お話しの準備のためにかえっていろいろと勉強するきっかけとなり、大変ありがたかったのです。「お前、もっとしっかり勉強しろよ」というご先祖さんの声が聞こえてきそうです。
さて、今日のテーマは「地震と津波~都市防災の盲点を考える」ということにしました。
防災や安全・安心ということは大変に大事なことなのですが、それゆえに紋切り型の言い方で、その大事さを伝える工夫というものがこれまでは随分少なかったように思うのです。
そこで、内閣府にある中央防災会議でも、「災害をイメージする能力を高めるコンテンツを広範かつ効果的に提供するための環境づくり」が必要である、という言い方で、国民にもっと分かりやすく災害を伝えることの重要性を説き始めています。
そこで登場するのが、「災害文化」という単語です。
「災害文化」とは何でしょうか。それは、「住民間に共有されている価値、規範、信念、知識、技術、伝承などによって構成」された、「災害常襲地のコミュニティに見いだされる文化的な防災策」であり、「災害の抑止や災害前兆の発見、災害発生後の対応において人々がとるべき対応」という風に表現することができます。
つまりしょっちゅう災害に遭うところでは、災害への対処の仕方や、こういうときにはこういう被害が出ると言うことが経験的に分かっている場合があって、そう言う知恵を「災害文化」と呼び、減災や防災に役立てようという試みなのです。
そして中央防災会議では、「歴史上の被災の経験と国民的な知恵を的確に継承」したり、「国民防災意識を啓発」したり、さらに「将来の災害対応に資する」ことなどを目的として平成15年から『災害教訓の継承に関する専門調査会』というものをつくっています。
そしてこれまでに、「1854 安政東海地震・安政南海地震」、「1891 濃尾地震」、「1707 富士山宝永噴火」、「1783 天明浅間山噴火」、「1976 酒田大火」、「1923 関東大震災~第1編~」 が「内閣府中央防災会議」のHP上で公開されています。
これは大変に素晴らしい内容なので、是非皆さんもホームページでご覧をいただきたいものです。
※ ※ ※ ※
さて、この中の「1854 安政東海地震・安政南海地震」のときを調べた報告書の中に、「稲むらの火」という物語が出てきます。
これは、紀伊の国広村における地震津波と、濱口梧稜(はまぐちごりょう)という人物による災害対応の物語で、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が「A Living God(生ける神)」として小説を書き紹介をしたことで知られるようになったものです。
また、この「稲むらの火」は、昭和12(1937)年から11年間国定尋常小学国語教科書(5年生)に掲載され、これを学んだ児童に感銘を与え、今日なお、災害文化を考える上で普及の教材として評価が高いものなのです。
「稲むらの火」のあらすじは、
1.濱口儀兵衛は長い間、村の名主を勤め尊敬されている。
2.儀兵衛の家は湾を見下ろす高台にあって、高台の下には村があって人口は400人。
3.季節は秋で祭りの準備がすすむ夕方の時刻。
4.この村にはしょっちゅう地震があったが、この日の地震は長くのろい、ゆったりとした地震だった。
5.儀兵衛が海を眺めると、津波を直感。下の村人を救うために、稲を刈り取って乾燥させている稲むらに火を放った。
6.「何事か」と駆けつけた村民のいた、下の村は津波によって壊滅、しかしこの火を見て駆けつけた村民の命は助かった。
7.村人はその後復興を果たし、儀兵衛の行動に対する感謝の気持ちとして彼の御魂を村の神社に祀った、というものです。
私も名前だけは聞いたことがあったのですが、改めてこの文章を読んで感動をしました。被災する人達を助けるためには、大事な米を燃やしても構わない、という勇気です。
※ ※ ※ ※
実際の濱口梧稜の活躍はこの小説よりも遙かにダイナミックなもので、夜間に津波に襲われた人達の道しるべとして稲を積み重ねた「稲むら」に火を放ったというものですし、さらには被災後の復旧・復興にも大変尽力をしたのでした。
災害を物語で語ることで、被災時の想像力を豊かにするという試みが始まっています。
私ももっと勉強して、災害を物語で語るということを続けたいと思うのです。
掛川の皆さん、今回は呼んで頂いてありがとうございました。
北海道のときはそれほどでもなかったのですが、4月から変わった今の立場は都市防災を公園の立場から考えるというものなので、これは非常に大切なテーマとなりました。
お話しの準備のためにかえっていろいろと勉強するきっかけとなり、大変ありがたかったのです。「お前、もっとしっかり勉強しろよ」というご先祖さんの声が聞こえてきそうです。
さて、今日のテーマは「地震と津波~都市防災の盲点を考える」ということにしました。
防災や安全・安心ということは大変に大事なことなのですが、それゆえに紋切り型の言い方で、その大事さを伝える工夫というものがこれまでは随分少なかったように思うのです。
そこで、内閣府にある中央防災会議でも、「災害をイメージする能力を高めるコンテンツを広範かつ効果的に提供するための環境づくり」が必要である、という言い方で、国民にもっと分かりやすく災害を伝えることの重要性を説き始めています。
そこで登場するのが、「災害文化」という単語です。
「災害文化」とは何でしょうか。それは、「住民間に共有されている価値、規範、信念、知識、技術、伝承などによって構成」された、「災害常襲地のコミュニティに見いだされる文化的な防災策」であり、「災害の抑止や災害前兆の発見、災害発生後の対応において人々がとるべき対応」という風に表現することができます。
つまりしょっちゅう災害に遭うところでは、災害への対処の仕方や、こういうときにはこういう被害が出ると言うことが経験的に分かっている場合があって、そう言う知恵を「災害文化」と呼び、減災や防災に役立てようという試みなのです。
そして中央防災会議では、「歴史上の被災の経験と国民的な知恵を的確に継承」したり、「国民防災意識を啓発」したり、さらに「将来の災害対応に資する」ことなどを目的として平成15年から『災害教訓の継承に関する専門調査会』というものをつくっています。
そしてこれまでに、「1854 安政東海地震・安政南海地震」、「1891 濃尾地震」、「1707 富士山宝永噴火」、「1783 天明浅間山噴火」、「1976 酒田大火」、「1923 関東大震災~第1編~」 が「内閣府中央防災会議」のHP上で公開されています。
これは大変に素晴らしい内容なので、是非皆さんもホームページでご覧をいただきたいものです。
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さて、この中の「1854 安政東海地震・安政南海地震」のときを調べた報告書の中に、「稲むらの火」という物語が出てきます。
これは、紀伊の国広村における地震津波と、濱口梧稜(はまぐちごりょう)という人物による災害対応の物語で、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が「A Living God(生ける神)」として小説を書き紹介をしたことで知られるようになったものです。
また、この「稲むらの火」は、昭和12(1937)年から11年間国定尋常小学国語教科書(5年生)に掲載され、これを学んだ児童に感銘を与え、今日なお、災害文化を考える上で普及の教材として評価が高いものなのです。
「稲むらの火」のあらすじは、
1.濱口儀兵衛は長い間、村の名主を勤め尊敬されている。
2.儀兵衛の家は湾を見下ろす高台にあって、高台の下には村があって人口は400人。
3.季節は秋で祭りの準備がすすむ夕方の時刻。
4.この村にはしょっちゅう地震があったが、この日の地震は長くのろい、ゆったりとした地震だった。
5.儀兵衛が海を眺めると、津波を直感。下の村人を救うために、稲を刈り取って乾燥させている稲むらに火を放った。
6.「何事か」と駆けつけた村民のいた、下の村は津波によって壊滅、しかしこの火を見て駆けつけた村民の命は助かった。
7.村人はその後復興を果たし、儀兵衛の行動に対する感謝の気持ちとして彼の御魂を村の神社に祀った、というものです。
私も名前だけは聞いたことがあったのですが、改めてこの文章を読んで感動をしました。被災する人達を助けるためには、大事な米を燃やしても構わない、という勇気です。
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実際の濱口梧稜の活躍はこの小説よりも遙かにダイナミックなもので、夜間に津波に襲われた人達の道しるべとして稲を積み重ねた「稲むら」に火を放ったというものですし、さらには被災後の復旧・復興にも大変尽力をしたのでした。
災害を物語で語ることで、被災時の想像力を豊かにするという試みが始まっています。
私ももっと勉強して、災害を物語で語るということを続けたいと思うのです。
掛川の皆さん、今回は呼んで頂いてありがとうございました。