今日の午後は、密集のフォーラムです。
このフォーラムの目的は、最近我が組織が完成させた、密集地区での道路整備事業について報告するのと、密集地区についてあらためていろいろな方の考えを聞こう、という企画です。
密集と呼ばれる地区には、不燃化率や耐震率などいろいろな規準からいくつかのエリアがあるのですが、基本的には①道路が狭くて緊急車両が入れないこと、②公園のようなオープンスペースが少ないこと、というあたりが共通項です。
またそれ以外にも、木造賃貸住宅であれば、③権利関係が複雑、④高齢化率が高い、⑤しかし地域への愛着があって地域コミュニティは強い、などの特徴もあります。
つまりメリットもデメリットもあるのですが、やはり基本的な都市構造としては狭い道路や少ない公園というのは防災性に関しては脆弱と言わざるを得ないでしょう。
阪神淡路大震災で火災発生から大きく類焼した長田地区も、密集地区だったのですが、東京にはそれ以上の密集率の地区がいくつもあるのです。そんな密集地区を抱えていれば、首都直下型地震になれば、東京での死者数は1万五千人と言われており、これをなんとか半減したいというのがいまの考え方だとか。
密集自身は、先にも述べたように、地域コミュニティが強かったり車が通らないので静かだったりというメリットもあるので、メリットを生かしつつも安全性を高めるようなまちづくりが必要だというわけです。
わが組織はそういうことのスペシャリスト集団として、まちづくりを手伝うのが仕事。お気軽にご用命を。
※ ※ ※ ※
今日の会場は世田谷区役所隣の、国士舘大学でした。そこで帰りがてらに歩いて近くの豪徳寺を回ってみました。
そう言えば昔、庄司陽子のマンガで「レッツ豪徳寺」というのがありましたけど、読んでいなかったなあ、などと思ううちにもう豪徳寺です。
ここには15世紀の末に庵が構えられたのですが、それが江戸時代初期の寛永10(1633)年に、世田谷を所領とした彦根の井伊家の当主井伊直孝が井伊家の菩提寺として、伽藍などを建てたのが今日に繋がっているのだそうですよ。
正式には大渓山(たいけいざん)豪徳寺と言うのですが、「豪徳」とは井伊直孝の戒名の「久昌院殿豪徳天英居士」によるのだそうです。
井伊家だけに、幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼もここに葬られていて、東京都史跡になっていました。
またここには招き猫のお堂もありました。Wikipediaによると、招き猫の由来には幾つかの説があるのですが、ここ豪徳寺にもそのうちの一つが伝わっているそうです。
【Wikipediaより「招き猫」】
招き猫の由来にはいくつかの説がある。
○豪徳寺説
東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説がある。
江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝(1590年3月16日- 1659年8月16日)が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺にたちより休憩した。
すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。
和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂がたてられ、猫が片手をあげている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)がつくられるようになった。ちなみに、この縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺となったといわれる。幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓も豪徳寺にある。(以上、Wikipediaより)
今では開国してアメリカと通商を結ぶということの是非を疑う人はいないでしょうが、歴史の陰にはいろいろな人の物語がありますね。
豪徳寺。なかなかに趣のあるお寺でした。
このフォーラムの目的は、最近我が組織が完成させた、密集地区での道路整備事業について報告するのと、密集地区についてあらためていろいろな方の考えを聞こう、という企画です。
密集と呼ばれる地区には、不燃化率や耐震率などいろいろな規準からいくつかのエリアがあるのですが、基本的には①道路が狭くて緊急車両が入れないこと、②公園のようなオープンスペースが少ないこと、というあたりが共通項です。
またそれ以外にも、木造賃貸住宅であれば、③権利関係が複雑、④高齢化率が高い、⑤しかし地域への愛着があって地域コミュニティは強い、などの特徴もあります。
つまりメリットもデメリットもあるのですが、やはり基本的な都市構造としては狭い道路や少ない公園というのは防災性に関しては脆弱と言わざるを得ないでしょう。
阪神淡路大震災で火災発生から大きく類焼した長田地区も、密集地区だったのですが、東京にはそれ以上の密集率の地区がいくつもあるのです。そんな密集地区を抱えていれば、首都直下型地震になれば、東京での死者数は1万五千人と言われており、これをなんとか半減したいというのがいまの考え方だとか。
密集自身は、先にも述べたように、地域コミュニティが強かったり車が通らないので静かだったりというメリットもあるので、メリットを生かしつつも安全性を高めるようなまちづくりが必要だというわけです。
わが組織はそういうことのスペシャリスト集団として、まちづくりを手伝うのが仕事。お気軽にご用命を。
※ ※ ※ ※
今日の会場は世田谷区役所隣の、国士舘大学でした。そこで帰りがてらに歩いて近くの豪徳寺を回ってみました。
そう言えば昔、庄司陽子のマンガで「レッツ豪徳寺」というのがありましたけど、読んでいなかったなあ、などと思ううちにもう豪徳寺です。
ここには15世紀の末に庵が構えられたのですが、それが江戸時代初期の寛永10(1633)年に、世田谷を所領とした彦根の井伊家の当主井伊直孝が井伊家の菩提寺として、伽藍などを建てたのが今日に繋がっているのだそうですよ。
正式には大渓山(たいけいざん)豪徳寺と言うのですが、「豪徳」とは井伊直孝の戒名の「久昌院殿豪徳天英居士」によるのだそうです。
井伊家だけに、幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼もここに葬られていて、東京都史跡になっていました。
またここには招き猫のお堂もありました。Wikipediaによると、招き猫の由来には幾つかの説があるのですが、ここ豪徳寺にもそのうちの一つが伝わっているそうです。
【Wikipediaより「招き猫」】
招き猫の由来にはいくつかの説がある。
○豪徳寺説
東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説がある。
江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝(1590年3月16日- 1659年8月16日)が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺にたちより休憩した。
すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。
和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂がたてられ、猫が片手をあげている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)がつくられるようになった。ちなみに、この縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺となったといわれる。幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓も豪徳寺にある。(以上、Wikipediaより)
今では開国してアメリカと通商を結ぶということの是非を疑う人はいないでしょうが、歴史の陰にはいろいろな人の物語がありますね。
豪徳寺。なかなかに趣のあるお寺でした。