大正の終わりから戦前にかけて改造社という出版会社がありました。
初期は総合雑誌「改造」を創刊し、ある時からはそれと並行して単行本づくりをはじめました。「改造」では後に志賀直哉が『暗夜行路』を長期にわたって連載し、後者の単行本ではそれは賀川豊彦の「死線を越えて」で大当たりをし、後には石坂洋二郎の『若い人』、林芙美子の『放浪記』などが大当たりを記録することになります。
やがて改造社では、哲学者のバートランド・ラッセルや物理学者アルバート・アインシュタインなどを日本に招いて話題になったり、岩波書店に対抗して改造文庫を発行、一冊一円の現代日本文学全集を出版するなど時代をリードしてゆくのでした。
改造社は軍部の圧力により昭和19年に一度解散させられ、戦後復活しましたが、その後は文庫は復活せず現在残っているのは書籍販売としての店舗ということになっています。
※ ※ ※ ※ ※
前置きが長くなりましたが、この改造社から出されたのが石川啄木全集。そしてその中に『卓上一枝』というエッセイ風な記事があります。
自由主義と社会主義に傾倒しかけていた啄木の悩みが綴られたエッセイなのですが、これは啄木全集にあるものの、長くその出所が分からずにいたのでした。
これを当時の釧路新聞に掲載したものだったのではないか、という声は多くありました。しかし現在でも見ることができ、申請すればコピーも取れる釧路市立図書館に残された当時の釧路新聞の紙面は、何者かによって記事が切り抜かれている有様。
これではここに何が書かれているかわかりません。
【記事が切り抜かれた釧路新聞】
いったい誰がいつ何のために、という憶測を呼びますが、通説では当時の全集づくりに多大なる貢献をされたY大先生であろう、ということになっていますが今ではそれも憶測にすぎません。
ところがこの『卓上一枝』が釧路新聞に掲載されたものであるということを綿密な調査によって明らかにしたのが、先日啄木について教えを乞うたK先生でした。
K先生が注目したのは、明治41年3月15日の新聞紙上で、切り抜かれた記事の下わずかに切り遺した文字の断片でした。
【上の記事の切残しがわずかに見えるのがわかりますか?】
そこでK先生は全集にある卓上一枝の記事をワープロで文字に起こし、それを釧路新聞の一行の文字数に割り付けた原稿を作って照らし合わせてみました。
するとなんと、このときのエッセイで各行の一番下に来る文字がこのほんのわずかに切り遺された断片と一致することが確認できたというのです!
【なんと原稿一番下の文字が復元できました】
何と言う執念!なんという追及心!まるで迷宮入り事件の犯人を追いつめる刑事のようなあくなき執念としか言いようがありません。
K先生のこの発見により、他の卓上一枝及びその他の記事も、釧路新聞の切り抜かれた紙面に合致することが分かり、釧路新聞でいつ掲載されたものかもが分かることとなりました。啄木研究史上実にすばらしい成果ではありませんか。
啄木の全てを明らかにしてその全てを知りたいという学究精神の鏡と、その執念に私自身聞いていて鳥肌が立つ思いでした。物事を追及するというのはここまでやらなくてはならないのですね。
※ ※ ※ ※ ※
釧路市立図書館では当時の釧路新聞をマイクロフィルムに収めていて、申請をすればコピー代一枚10円で紙面を分けてくれました。
とても私たちでは啄木研究においてK先生にかなうようなものではありませんが、なにか一つを地道にじっくりとみつめて研究すれば知られていなかったことだって見つかるかもしれません。
ただひたすら愚直なまでに思い込んであきらめず、自分のテーマに向き合う姿勢こそが大切です。
K先生にはまだまだ啄木について教わらなくては。
気がつけば今日4月13日は啄木が亡くなった啄木忌ではありませんか。
改めてこの機会に石川啄木に思いを寄せてみてはいかがでしょうか。
こほりたるインクの罎を火に翳し
涙ながれぬともしびの下
(石川啄木 詩集『一握の砂』より)
【釧路新書30 増補・石川啄木】
初期は総合雑誌「改造」を創刊し、ある時からはそれと並行して単行本づくりをはじめました。「改造」では後に志賀直哉が『暗夜行路』を長期にわたって連載し、後者の単行本ではそれは賀川豊彦の「死線を越えて」で大当たりをし、後には石坂洋二郎の『若い人』、林芙美子の『放浪記』などが大当たりを記録することになります。
やがて改造社では、哲学者のバートランド・ラッセルや物理学者アルバート・アインシュタインなどを日本に招いて話題になったり、岩波書店に対抗して改造文庫を発行、一冊一円の現代日本文学全集を出版するなど時代をリードしてゆくのでした。
改造社は軍部の圧力により昭和19年に一度解散させられ、戦後復活しましたが、その後は文庫は復活せず現在残っているのは書籍販売としての店舗ということになっています。
※ ※ ※ ※ ※
前置きが長くなりましたが、この改造社から出されたのが石川啄木全集。そしてその中に『卓上一枝』というエッセイ風な記事があります。
自由主義と社会主義に傾倒しかけていた啄木の悩みが綴られたエッセイなのですが、これは啄木全集にあるものの、長くその出所が分からずにいたのでした。
これを当時の釧路新聞に掲載したものだったのではないか、という声は多くありました。しかし現在でも見ることができ、申請すればコピーも取れる釧路市立図書館に残された当時の釧路新聞の紙面は、何者かによって記事が切り抜かれている有様。
これではここに何が書かれているかわかりません。
【記事が切り抜かれた釧路新聞】
いったい誰がいつ何のために、という憶測を呼びますが、通説では当時の全集づくりに多大なる貢献をされたY大先生であろう、ということになっていますが今ではそれも憶測にすぎません。
ところがこの『卓上一枝』が釧路新聞に掲載されたものであるということを綿密な調査によって明らかにしたのが、先日啄木について教えを乞うたK先生でした。
K先生が注目したのは、明治41年3月15日の新聞紙上で、切り抜かれた記事の下わずかに切り遺した文字の断片でした。
【上の記事の切残しがわずかに見えるのがわかりますか?】
そこでK先生は全集にある卓上一枝の記事をワープロで文字に起こし、それを釧路新聞の一行の文字数に割り付けた原稿を作って照らし合わせてみました。
するとなんと、このときのエッセイで各行の一番下に来る文字がこのほんのわずかに切り遺された断片と一致することが確認できたというのです!
【なんと原稿一番下の文字が復元できました】
何と言う執念!なんという追及心!まるで迷宮入り事件の犯人を追いつめる刑事のようなあくなき執念としか言いようがありません。
K先生のこの発見により、他の卓上一枝及びその他の記事も、釧路新聞の切り抜かれた紙面に合致することが分かり、釧路新聞でいつ掲載されたものかもが分かることとなりました。啄木研究史上実にすばらしい成果ではありませんか。
啄木の全てを明らかにしてその全てを知りたいという学究精神の鏡と、その執念に私自身聞いていて鳥肌が立つ思いでした。物事を追及するというのはここまでやらなくてはならないのですね。
※ ※ ※ ※ ※
釧路市立図書館では当時の釧路新聞をマイクロフィルムに収めていて、申請をすればコピー代一枚10円で紙面を分けてくれました。
とても私たちでは啄木研究においてK先生にかなうようなものではありませんが、なにか一つを地道にじっくりとみつめて研究すれば知られていなかったことだって見つかるかもしれません。
ただひたすら愚直なまでに思い込んであきらめず、自分のテーマに向き合う姿勢こそが大切です。
K先生にはまだまだ啄木について教わらなくては。
気がつけば今日4月13日は啄木が亡くなった啄木忌ではありませんか。
改めてこの機会に石川啄木に思いを寄せてみてはいかがでしょうか。
こほりたるインクの罎を火に翳し
涙ながれぬともしびの下
(石川啄木 詩集『一握の砂』より)
【釧路新書30 増補・石川啄木】