北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

学力の商人

2016-10-11 22:59:12 | Weblog

 

 パソコンを整理していて、なくしたと思っていたファイルをみつけて嬉しくなりました。

 パソコンはハードもソフトもどんどん古くなるので買い替えなくては時代に付いていけません。しかしそのたびに、それまで作り貯めたデータや資料や写真などを新しいパソコンに移さなくてはいけません。そしてしばしばその時に失敗をしてデータを失うという事があるのです。

 今回も以前使っていたパソコンのデータをどこかへ移したはずだと思いながらわからなくなっていたので、(もしかしたらなくしたかもしれない、もったいないなー)と思っていたのが、ちゃんとあったのでほっと胸をなでおろしました。

 そんな昔のファイルで、12年前に掛川市役所にいたときに当時の市長さんから聞いてブログに書いた話が残っていました。公教育の学校と私学の代表である塾とのバトルのお話です。

 以下、当時の話題を再掲します。

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 …中でも、現在の都会における私学人気と公教育との違いについてのお話しは興味深いものだった。

 実は(榛村)市長がかつて中教審の委員として出席していたときに、初めて文科省が塾の代表者を委員として迎えたときがあったのだそう。それまで文科省は塾というものを認めていなかったので、教育審議会に参加してもらうと言うことはなかったのだが、このときに初めて塾を認める形になったと言うことなのだ。

 そしてその委員会の場で「なぜ塾が必要か」という論争があって、塾経営者が「社会のニーズに応えていると言うことです」と答えたときに、公教育擁護派の委員から「ニーズがあるから応えるというのでは、武器を売る死の商人と一緒ではないか」と応じ、それに対してまたまた塾経営者から「学力の商人のどこが悪い!」と気色ばんだ場面があったのだそうだ。

 言葉を大事にする市長としては、「学力の商人」という言葉が印象的だったようで、それを面白いとおもったのだそうだ。

 しかし要は、「知・徳・体のトータルバランス」を教えることを大事に考える公教育と、一点突破の学力・知力だけを身につけさせればよい私学との永遠の争いなのだという。

    ※    ※    ※    ※

 私としては、採用になれば簡単にクビにはならない公教育の教師と、移り気な学生を相手にして頼られて生徒が集まらなければ倒産するという恐怖を日々感じながら教育を売っている塾の先生とどちらに必死さがあるかと言えば答えは歴然としているように思う。

 評価と言うことが伴わない仕事の成果は往々にして質が落ちるし、逆に言えば質の高さを適切に評価できるシステムを持っていないことも問題だ。

 これは学校教育の世界に限らず、公務員世界全体につきまとう問題だ。ある自治体では自治体業務全てを民間に委託しようとして、様々な軋轢の中で断念したということがあった。

 時代が変わってこのようなことが本当に行われるようになれば「公務員という身分にのみ許される特権的役回り」などはたちまちぼろぼろの袈裟になることだってありえるのだ、という恐れを心のどこかに抱くことは有意義なことのように思われる。

 常に畏怖の念を持って自己を磨き、最善を尽くす気概をもつものだけがやれるのが公務員や教師、ということになる時代が来そうな気もする。

 油断だけはしないほうが良い。そういう姿勢は必ず外に伝わるはずである。

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 掛川では、日々目や耳にする話題が面白くてこんな文章を掛川では毎日書いていました。

 さてこの文章を書いた時(2004年8月9日でした)から12年が経過しました。教育は学力テストが行われるようになり、子供に学力が付いたかどうか、という指標が重要な時代になりました。

 同時に、人々の間に経済格差が生じて、塾に行ける子と行けない子との学力差も問題になってきました。当時は思いもよらない未来になっている。

 昔のブログもたまに読み返してみると面白いものです。

 

コメント
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