塚本哲也さんの『エリザベート ハプスブルグ家最後の皇女』を読みました。
ヨーロッパ一の名家、ハプスブルグ家に生まれたエリザベートの人生は、波瀾に満ちたものだった。
まず、幼い頃に、皇太子である父を、母以外の女性との心中事件で亡くす。
さらに、その結果として、母も祖母も家庭を顧みることが無くなり、皇帝である祖父だけが頼りの
寂しい少女時代を送る。
しかし、祖父の教育のたまものか、意志の強い女性へと成長していく。
そして、王制廃止や、ナチスドイツによる占領、第二次世界大戦、戦後の中欧諸国の共産化と、
つらく苦しい時代を生き抜いてきた、ハプスブルグの血を正に表した女性だったようだ。
第一の結婚は、四人の子どもに恵まれたものの、夫とすれ違い始めると、
決定的な対立へと発展してしまったらしい。
様々な争いの末、子どもからも望まれて全員の養育権を勝ち取ったエリザベートだったが、
やがて、第二の夫となるペツネックと彼の所属する社民党に、子育て以上に献身的になってしまったため、
子ども達の離反を生んでしまう。
第二次世界大戦後は、広大な自宅を占領軍に接収されて、小さな家で十年にわたって暮らしたのも、
心身にこたえたようである。
その後は、屋敷を取り戻すことができ、占領軍にたくさんの財産を奪われていたものの、
愛する夫・ペツネックと穏やかな暮らしをおくれるようになった。
だが、1956年、愛する夫に先立たれ、ハンガリー動乱の後は、諦念と絶望の交錯した
諸行無常の心境になり、現実に目を閉じ、耳をふさいでしまった。
とうとう、1959年、エリザベートは、死後の世界へと旅立ち、一切の美術品が散逸しないように、
オーストリア共和国に寄贈するようにという遺言を残した。
エリザベートは、歴代のハプスブルグ家の皇帝、皇后などの柩が安置されているかプチーナ教会と違い、
郊外のわびしい小さな墓地にペツネックと一緒に眠っている。
こんな大きな人物の波瀾の人生を前にしては、何の言葉も出てきません。
ただただ、圧倒されました。
ヨーロッパ一の名家、ハプスブルグ家に生まれたエリザベートの人生は、波瀾に満ちたものだった。
まず、幼い頃に、皇太子である父を、母以外の女性との心中事件で亡くす。
さらに、その結果として、母も祖母も家庭を顧みることが無くなり、皇帝である祖父だけが頼りの
寂しい少女時代を送る。
しかし、祖父の教育のたまものか、意志の強い女性へと成長していく。
そして、王制廃止や、ナチスドイツによる占領、第二次世界大戦、戦後の中欧諸国の共産化と、
つらく苦しい時代を生き抜いてきた、ハプスブルグの血を正に表した女性だったようだ。
第一の結婚は、四人の子どもに恵まれたものの、夫とすれ違い始めると、
決定的な対立へと発展してしまったらしい。
様々な争いの末、子どもからも望まれて全員の養育権を勝ち取ったエリザベートだったが、
やがて、第二の夫となるペツネックと彼の所属する社民党に、子育て以上に献身的になってしまったため、
子ども達の離反を生んでしまう。
第二次世界大戦後は、広大な自宅を占領軍に接収されて、小さな家で十年にわたって暮らしたのも、
心身にこたえたようである。
その後は、屋敷を取り戻すことができ、占領軍にたくさんの財産を奪われていたものの、
愛する夫・ペツネックと穏やかな暮らしをおくれるようになった。
だが、1956年、愛する夫に先立たれ、ハンガリー動乱の後は、諦念と絶望の交錯した
諸行無常の心境になり、現実に目を閉じ、耳をふさいでしまった。
とうとう、1959年、エリザベートは、死後の世界へと旅立ち、一切の美術品が散逸しないように、
オーストリア共和国に寄贈するようにという遺言を残した。
エリザベートは、歴代のハプスブルグ家の皇帝、皇后などの柩が安置されているかプチーナ教会と違い、
郊外のわびしい小さな墓地にペツネックと一緒に眠っている。
こんな大きな人物の波瀾の人生を前にしては、何の言葉も出てきません。
ただただ、圧倒されました。