英語と同じくらいイタリア語がとびかいます。ウディ・アレンといったらおしゃべりだが、おしゃべりとあったらイタリア語くらいぴったりの言葉もない。
エンドタイトルを見ると、スタッフも大半が現地調達のようです。
アメリカ人が見たら、意味のわからないおしゃべりをどう受け取るのだろう。アレン自身の役が、イタリア語がわからないのが花という具合にしてある。
最近のアレンの映画作りは観光地巡りを兼ねた老後のホビーみたいになってきました。
カットやシーンのつなぎなど相当に無頓着になってきている気がします。たとえばパパラッチに追いかけられたロベルト・ベニーニが自宅に逃げ込もうとして鍵を開けようとするがあわてているので鍵が入らない、そこで中から開いたのでとびこむのだが、当然中でドアを開けた家人がすぐそばにいないとおかしいのに少し離れたところから寄ってくる、とか二組が別のところでイタしているところで片方では雨が降ってもう片方では晴れっぱなしになっているとか、同じ時間帯なのか全然違うのかよくわからない。どうでもいいといえばいえるけれど。
あれと思ったのはロベルト・ベニーニのエピソードが完全に筒井康孝の「おれに関する噂」だったこと。まあ、現実の方が「おれに…」に追いついてから久しいから、それほど不思議ではないとはいえばいえるが、アレンが読んでいるのかどうか。
「ハンナとその姉妹」公開時に、荻昌弘が「なんと『細雪』ではないのと心ときめかせました…感謝祭から感謝祭などという作劇じたい、前進をエネルギー源とするアメリカ映画からはなれている。もしかしたら本気で谷崎を読み、自分のものにしたのかもしれない。このひとりぼっちのニューヨーカーならそれくらいのことしかねない」という意味の評を書いていたが、実際に影響を受けているかどうかはともかくどこかアメリカ(映画)ばなれした体質が自然と遠いところと似てしまうシンクロニシティはあるかもしれない。
色彩撮影がまことに美麗。
(☆☆☆★)
本ホームページ
ローマでアモーレ@ぴあ映画生活
ローマでアモーレ@Movie Walker
エンドタイトルを見ると、スタッフも大半が現地調達のようです。
アメリカ人が見たら、意味のわからないおしゃべりをどう受け取るのだろう。アレン自身の役が、イタリア語がわからないのが花という具合にしてある。
最近のアレンの映画作りは観光地巡りを兼ねた老後のホビーみたいになってきました。
カットやシーンのつなぎなど相当に無頓着になってきている気がします。たとえばパパラッチに追いかけられたロベルト・ベニーニが自宅に逃げ込もうとして鍵を開けようとするがあわてているので鍵が入らない、そこで中から開いたのでとびこむのだが、当然中でドアを開けた家人がすぐそばにいないとおかしいのに少し離れたところから寄ってくる、とか二組が別のところでイタしているところで片方では雨が降ってもう片方では晴れっぱなしになっているとか、同じ時間帯なのか全然違うのかよくわからない。どうでもいいといえばいえるけれど。
あれと思ったのはロベルト・ベニーニのエピソードが完全に筒井康孝の「おれに関する噂」だったこと。まあ、現実の方が「おれに…」に追いついてから久しいから、それほど不思議ではないとはいえばいえるが、アレンが読んでいるのかどうか。
「ハンナとその姉妹」公開時に、荻昌弘が「なんと『細雪』ではないのと心ときめかせました…感謝祭から感謝祭などという作劇じたい、前進をエネルギー源とするアメリカ映画からはなれている。もしかしたら本気で谷崎を読み、自分のものにしたのかもしれない。このひとりぼっちのニューヨーカーならそれくらいのことしかねない」という意味の評を書いていたが、実際に影響を受けているかどうかはともかくどこかアメリカ(映画)ばなれした体質が自然と遠いところと似てしまうシンクロニシティはあるかもしれない。
色彩撮影がまことに美麗。
(☆☆☆★)
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