prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「スパイの妻」

2020年10月29日 | 映画
オープニングで太ったイギリス人が登場するところで、「CURE」の冒頭の太った医者を思い出した。

闇の中を光が射すときは不吉の徴、というのがここでの法則となるだろう。
劇中映画で転がる懐中電灯、不安な展開に従って夫婦の顔にさす光の束、木箱に穿たれる空気穴から射す光、そして何より劇中で映写される映画そのもの。

「CURE」での、あるいは「リング」をはじめとする数々の呪われた映像と共鳴する不吉さだ。
ただしそれはあからさまな霊の類いの呪いではなく時代そのものの歪みに向かうが、しかし社会派的な構図にも収まりきらない。

黒沢映画でバスが登場する時はたいてい外が作り物めいて、バスが走っているというか空を飛んでいるような奇妙な感じになるのだが、ここでは外は光で塗りつぶされて具体物は見えない。
NHKのドラマでは外を光で満たすという処理をよくするから、その延長上ではあるのだろうが、その光が映画の上映に備えて窓で遮られる時から、改めてビームとなって光が差し込む凶兆が予告される。

決定的な凶兆が迫るとき、再び「CURE」に現れた、遠くから予感のように伝わってくる震動に共鳴するコップとそこに突っ込まれた器具が現れ、それはタルコフスキーの「ストーカー」の列車の震動にも遥かに共鳴するだろう。

港を描くのに、初めは船も見えない(エンドタイトルを見ると氷川丸を使ったか、今の空港で出発ロビーからは飛行機が見えないのに近い)、船がやっと写ったかと思うと海が見えない、しかもわざわざ絵に描かれた船が代わりに写されるといった具合に描写に奇妙な歪みが導入されている。
そして海を往く船が堂々と写される時の、なんという皮肉で残酷な状況。

冒頭から隊列を組んだ兵士たちが再三登場し、文字通り軍靴の響きを聞かせるわけだが、これがどこか整列ぶりが微妙に乱れていたり、ワンカットの中でたびたび方向転換するので、全体主義の象徴でいながら奇妙に調子が外れている。

蒼井優がはっとなったりする時に、しばしば手を口にやる。今ではあまり見られなくなった昔の女性らしい仕草だろう。

高橋一生の、当人は振る舞いを変えていないのに状況の変化によってさまざまに見えかたがまるで変わってくるありよう。

東出昌大がやたら背が高いのがしばしば人間離れして見えるのが「散歩する侵略者」と共鳴している。