レニ・リーフェンシュタールというおよそ一筋縄ではいかない相手に執拗に迫るインタビュアー(監督)との緊張感。
ナチ協力について、謝罪しろとおっしゃるのですか、謝罪して済むことではないでしょうとはぐらかす(つまり謝罪しないということ)あたり、腹立たしくあるが、タフな相手だとは思う。
女優時代の出演作が見られる。
のちにナチに対する批判的な立場に立ち「リリー・マルレーン」を歌って戦場の兵士たちを慰安したマレーネ・ディートリッヒが当時はジョセフ・フォン・スタンバーグのミューズないしマヌカンで監督の言うことは絶対だったのに対し、レニはアーノルド・ファンクに反発し対抗し続ける対照が面白い。
レニの最もナチ協力に関しては最も厳しい批判者であるスーザン・ソンタグもこの時期の男社会への反抗者としての面は評価している。
しかし、肝腎の「民族の祭典」「美の祭典」の映像が抜粋ということもあるのだろうが、意外と蠱惑的な映像の魅力という点でいうと、今の目で見ると作り物臭さがかなり目立ってさほどでもない、と私見では思える。
ナチの兵士たちのアップショットなど、あからさまに別撮りでスタジオで撮っているのがわかってしまう。そのあたり、見る側のスレてきているし、情報操作する側も巧妙に複雑になっているのだろう。
後年の写真展「ヌバ」でナチのドキュメンタリーと同じように「美しい」人間だけしか目に入っていないという批判を承知の上でバカげていると一蹴する。芸術家的なエゴには違いないが、褒める気にはならない。そこまで芸術至上主義には与せない。
現在公開中の「東京オリンピック2020」の河瀨直美も同様のエゴの持ち主ではあるのだろう。
前だったらそういう芸術や美の価値と主催者のプロパガンダと切り離したかもしれないが、それは今やムリだ。
なおナチの五輪映画はオリンピック憲章の精神からして直接政府が出資するわけにはいかず(あくまで主体は都市が主催するタテマエになっている)、レニの会社を通じて迂回融資をしたという。だから映画の権利はレニのものであり、戦後も収入を確保できた。したたかというか、ずる賢いというか。
今度の東京オリンピックはそういうタテマエすら無視して、決算を隠蔽するのに汲々としている。最低。
深海の魚の写真もまた美しい。さすがにここまでくるとナチと結びつけるのは難しい。それにしてもタフにも程がある。