こういうとなんだが、荻上直子監督作というとエコでスローで癒し系という印象が強くて、実際に割と見るのにもやや半身で見ていた感じだったが、今回はかなりあれと思った。
つまりかなり、というかはっきり死の影が強くなっていたから。
ムショ帰りでおばさんたちに混ざってひたすら塩辛用のイカを捌き続ける労働についている松山ケンイチが主人公なわけだが、どうやら長いこと絶縁状態にあった父親が孤独死しているのがわかってくる。
平屋の見るからに家賃の安そうな(しかしその家賃もまともに払っている住人は少ないと大家の満島ひかりが言う)アパートの個性的というかヘンといった方が早い住人たちの集団劇でもある。
ムロツヨシのむさくて図々しい中年男がまずわかりやすくずがずが松山の生活に侵入してくる。野菜を自家栽培しているのがエコといえばエコだが、大丈夫か(たとえば台風が来たらひとたまりもない)とも思わせる。
吉岡秀隆が子供連れの墓のセールスマンで誰にでも墓を売りつけようとするあたり、やはり死のモチーフがあからさまに出ている。
満島ひかりの設定はほとんど「めぞん一刻」の響子さんだ。
柄本佑の市役所員が見せる孤独死して役所が保管している人間の骨壺の数の多いこと。
たとえば自殺相談の電話の向こうからのセリフの繰り返しで、あるキャラクターの過去を暗示するなど、映画作りの腕がこなれている感じ。
松山が電話をかけるのが公衆電話で、川っぺりに破棄された公衆電話の山の周囲で女の子が縄跳びの縄をぐるぐる回して宇宙人と交信するあたり、道具か古めかしい分異世界に通じている感じが出ていて、その宇宙人が応えたみたいに登場?するシーンが、日本映画で「NOPE ノープ」みたいな大がかりなCG使えるわけもないが、アナログだが不思議な感じを出したやり方で対抗してうまくいっている。
出てくる携帯がガラケーで、時代が少し前なのかと思うと、金持ちが住んでいる丘の上に風力発電の風車が回っているのがロングショットではあるがはっきり見える。
さっき書いた文字通りお高くとまったエコでスローな生活ができる層がいる格差があからさまな現代の話なのだな。
乱暴にまとめると、そのあちら側にいたような印象が強かった荻上作品の視点がこちら側に移ってきたとも言える。貧乏リアリズムには決して行かないのだが。
ホームレスや孤独死みたいにすぐそばに死があるような底辺の世界で、カネはないが人にたかってでもとにかくメシは食っていれば生きてはいる。
そう開き直るわけでもなく、すぐそばにある死を淡々とおどろおどろしくならず半ばメルヘンチックなタッチで描きながら、しかし身近にある感覚は手放さない。
川っぺりという設定が自然と此岸と彼岸とを暗示する。姿は見せないホームレスのブルーシートも同様。