オープニングの長回しの中で原田美枝子が自分自身を見ているような幻覚が何度も交錯してくる。人格が分裂しているようでもあり、認知が混乱している主観の表現でもあるのだろう。
長回しの多い映画だけど、フィルム時代の撮影現場の失敗できない緊張感を記録する長回しではなく、素材をシームレスにつないで長くする(「トゥモロー・ワールド」以来の)デジタル時代の長いカットということになる。もう画面作りの発想の基本から変わってきている感じ。
ところどころ暗すぎはしないか、と思える画面があるのは気になった。配信で見るのはキツいのではないか。
1980年代の初めに「人間の約束」「花いちもんめ」「ふるさと」「痴呆症老人の世界」など当時の言葉でいる痴呆症、今の認知症を扱った映画が集中した時期があった。
当時の人口調査から将来高齢化社会が来るのはすでに予想がついていたし、実際到来した。
当然、認知症もひとごとではありえず、自身の出来事か少なくとも身近な問題ということになって、半ば認知症の人の主観に入り込むような描き方が出てきたという点で、先日のアンソニー・ホプキンス主演の「ファーザー」とも共通する。
オープニングから一本刺しの花が出てきて、母はもっぱら花は一本刺しでしか生けないというセリフもある。
その花と対応するように「半分だけの花火が見たいの」というセリフもあって、途中で母と息子が花火を見に行くところでは水面で花火が開き、上半分は空中、下半分は水に映った形で全体とすると円の形を保っていて、ラストシーンでは団地で下半分が切られて上半分しか見えない。
半円が合わさって円になる、というのがありがちなイメージの展開なのだが、それが逆になっている。
解釈とすると、認知症の人の認識もそれなりに別の認知の仕方として融合することはないが存続していく、という図になるだろう。