現代美術というと、何を描いているのかわからないとかうちの孫が描いたのと大して変わらない、といった批判にさらされることが多いし、実際そうした批判が的外れとはいえない。
もともと王侯貴族といった特権的な階級に雇われた芸術家と所有された芸術という枠組みを解体することが近代芸術の大きな目的だったろうし、現代芸術となるともっと進んで芸術を芸術家だけのものから解放するものといった概念の表現になった。だから子供の既成概念に縛られない絵に似るのは当然でもあり、小さいうちに描いていた絵はおもしろいのに成長したらつまらなくなってしまうのを意識的に再生するといった性格も持ってくる。
映画のオープニングとラスト近くに先生が子供たちを美術館に引率してくるあたり、そういう自由さを忘れないで欲しいというメッセージでもあるだろう。
あらゆる人に開かれているべき、というのはこの夫妻が郵便局員と図書館の司書という中産階級の生活者の範囲内で捻出できる費用で買い揃えたもの、という点にも、アメリカのすべての州に同じだけの数を寄付するという態度にも現れている。
ラスベガスみたいに歓楽街しかないみたいな街にも、ノースダコタ州のファーゴ(映画の舞台にもタイトルにもなった)にも同じ数を配るわけで、なんだか持て余したりしている担当者の姿がなんだか可笑しいし、不況の影響がもろに現れたのもわかる。
美術コレクションというと金持ちのやることという印象が強いが、普通の人でもやろうと思えばこれだけできるというのがわかる。明らかにコレクターの「好み」による統一性があってコレクション自体がひとつの作品というのも説得力あり。
アートにはどうしてもパトロンが必要だけれど、それを昔の王侯貴族ではなく市民レベルでやるのが近代社会ということになる。
一方で、作者の「個性」を打ち出しさないと商業価値を持たないわけで、誰でも作れるのは違いないが経済的に成立させるのは難しいし、あまりになんでもありになりすぎて価値判断が難しくもある。そこは結局個々人の好み以外にありえないとコレクションに一貫する美意識が教えている。
個人的に、コレクションされた作品はほとんどみんな良いなと思えた。
車椅子に乗った夫のハービー(愛称はハーブ)がひどく口数が少ない。何か機嫌でも悪いのかと思うくらい。昔の映像ではもう少し喋っているので、前作ではどうだったのか見てみたくなった。前作は見ていないが、特にわからないことはなかった。
もともとアーティスト志望だったのを公務員として生涯を過ごしたわけで、どういう思いでコレクションしていたのか想像するしかないし、映画自体想像させるように作られている。
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ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの@Movie Walker
ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの@ぴあ映画生活