prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ノマドランド」

2021年04月15日 | 映画
描かれる境遇はスタインベックの怒りの葡萄に近いが(スピルバーグ製作によるリメイクの企画、どうなったのか)、怒りや抗議の感覚は薄い。

舞台にサウスダコタ州のバッドランズ国立公園が入っているわけだが、バッドランズといえばテレンス⋅マリックのデビュー作「地獄の逃避行」の原題がBadlandsだった。
あれの広大なアメリカの自然と静謐な詩情の方に近い。
マジックアワーの捉え方の見事さ。

見捨てられて放浪しているのではなく、また出会うために別れを繰り返すという世界観は荒野に生まれた宗教のそれとも思える。

エンドタイトルを見ると、フランシス⋅マクドーナンド以外の素人の出演者はほとんど全員役名と出演者名が一致している。つまりほとんど当人そのままということだろう。
むしろ半ばドキュメンタリーのようなリアルノマドの人たちの中にプロの俳優であるマクドーナンドが入っていったと捉えた方がいいだろう。
プロの俳優であるとかえって怖いのではないか。プロデューサーも兼ねているのだから、挑戦でもあるだろう。

スタッフ編成で目を引くのはジョシュア・ジェームズ・リチャーズが撮影と美術を兼任していること。この二つのパートを兼任するのは珍しい。そこにあるものをそのまま撮っているように見える(そんなわけはないだろうが)画作りのせいか。




「アンダードッグ」

2021年04月14日 | 映画
前編2時間11分、後編2時間25分の劇場公開版があるのだが、abemaTVで全八話に分けた連続ドラマ版で見た。

本来なら両方見比べるべきなのかもしれないけれど、正直これだけ長いと両方つき合うのは悪いけど勘弁してくれと思う。他に見るもの多いのだし。となると、長いドラマ版の方を見ることになる。

前に韓国のボクシング映画で「クライング・フィスト」という、中年ボクサーと少年院上がりの若いボクサーの二人を等分に並行して描いていってどちらにも感情移入できるようにして、どっちが勝つかわからないままクライマックスで対決するという作りのがあった。
それもテレビ版の長いのを作るのを別に作る構想があったらしいが、いってみればその構想を実現したのがこれという言い方ができるかもしれない。

アンダードッグ=負け犬たちとその周囲の人間の生活の描き込みが小さな女の子を含めて女たちの自立と腐れ縁感をこめて長時間かけて綿密で、しかしテレビではまず無理な素材。

第四話=おそらく劇場用の前編のクライマックスの試合の盛り上がり、風間杜夫の父親が息子の奮戦を見てダメ人間だと思い込んでいた息子を認めるところが泣かせる。

第五話以後、後半になるとクライマックスが一度終わっているからまたいったんだらっとするのだが、一話完結にしたからメリハリが出たのではないかという気もする。
見比べてみないとわからないことではあるけれど。

「あゝ荒野」とかこういう配信=放送=長尺・連続ドラマ版と劇場版とを両方リリースされるのが増えたが、今後は前者の方が主で、後者の方はかつてのVシネ・ビデオ映画のように劇場公開はお披露目としての意味合いが強くなるだろう。

役者たちのボクサーなりきりぶりは日本でもメソッドの裔のなりきり演技がデフォルトになりつつあるかと思わせる。



「ザ・スイッチ」

2021年04月13日 | 映画
殺人鬼と女子高生の心が入れ替わってしまうホラーコメディ。

196センチの巨体のヴィンス⋅ヴォーンが中身が女子高生になっておびえながら乙女走りしたりするギャップが笑わせる。
リメイク版の「サイコ」で殺人鬼役をやっているけれど、もとはコメディ畑の人なのが生かされた。

当たり前のようだけれど、連続殺人鬼はたいてい力の強い大男なのだと改めて思う。
女子高生の身体に入ってしまった殺人鬼がいつものように力まかせには殺せず手こずったり知恵や口先に頼らざるを得なかったり、殺人鬼に入った女子高生が力の加減がわからず周囲をぶっとばしてまわるのがまた面白い。
下ネタギャグもほどほどにあります。

ホラーとしては意外なようだが、詩の朗読が重要な役割を果たす。先日の「ノマドランド」でも詩が重要な役割を果たしていたが、詩の朗読の文化というのは良いですね。ポエムなんて揶揄するものではない。

原題はFreaky。ジョディ⋅フォスターとバーバラ⋅ハリスが主演した母娘入れ替わりコメディにひっかけているらしい。




「サンドラの小さな家」

2021年04月12日 | 映画
娘たちを連れてDV夫から逃げた女性が住居がないという理由から親権を取り上げられそうになり、では自分で住む家を建ててしまえばいいという展開になる。
ある意味メルヘンっぼい感じもする一方でリアルなところはとことんリアル。

主演のクレア・ダンが脚本を兼ねたわけだけれど、暴力をふるう夫がどう見ても一方的に悪いのに、形式的に平等に扱わなくてはならない、という法制度の理不尽さと、家を建てるのに協力してくれる人たちの力の描写を両立させたのが上手くて、とどめに子供たちの可愛らしさがくる。

DV夫が優しそうな顔を見せるかと思うとこれが詐欺師的な手口そのもので、結局自分のプライドだけが大事で妻はもちろん、娘たちのことも本当に育てたいわけではなくプライドを満たす道具くらいにしか思っておらず、そのためには手段を選ばない嫌らしさが容赦なく描かれる。
ヒロインが夫に思い切り手首を踏まれたために後遺症が残って大工作業に支障が出るあたりの設定も細かい。

母親が父親に暴力を振るわれるのを見ることが小さな子供にとっては凄い恐怖なのをおしっこを漏らしたりする生理的な描写を交えて率直に描き込んでいるのは監督脚本主演と女性の作り手がメインの作品らしい。

アイルランドで共同体的な共助が生きている一方で、カソリックの女性に抑圧的な体質がやはりあるのだろうと思わせたりする。




「騙し絵の牙」

2021年04月11日 | 映画
広告だといかにもどんでん返し、どんでん返しの連続みたいだし、そうには違いないのだけれど、観客を騙すこと優先というより普通に興味をつないで引っ張っていくストーリーテリングの技法の範中だと思う。
予告編で使われていたセリフが全然違う文脈で、しかも違うテイクが使われているのにあれまと思う。

原作者が大泉洋にあて書きしたというキャラらしいが、ぬらりひょんを若くしたみたいな、つかみどころがなくてしぶとい感じはそのまんま。
ルパン三世みたいでもある。

松岡茉優の実家の本屋で、看板の書店の書の字が消えかかっているのが、いかにも左前の昔の本屋という感じを出した。
狭い店内に並んでいる品揃えもマンガが大半で一応売れ筋を広く浅く揃えている感じ。
その中で「2001:キューブリック、クラーク」マイケル・ベンソンの分厚く赤い背表紙が目立つ。誰が持ってきたのでしょうね。

およそ本筋と関係ないことだが、最初の方で生原稿を読んで左手でメモをとる松岡茉優の左手手首に腕時計が女はめ(文字盤が脈をとるあたりにくる)になっているのにあれと思った。
腕時計している左手でペンを持っている図ってあまりない気がする。
松岡茉優は本当に左ききだそうだが、ラスト近くの大泉洋と屋上で会話を交わすシーン、わずかに鉄製の手すりに時計がぶつかっているとおぼしき音が入っている(気がする)。

ライバル誌同士の争いではなく、老舗出版社の内部の古めかしい純文学雑誌編集部と純文学をアップデートしようとするカルチャー系編集部との抗争に派閥抗争がかぶる構図。
若くてイケメンの作家の売り出し方などいかにも今っぽくて、しかも映画自体のセンスがズレていない。
新しいものと古いものの対立と見せてするっとひっくり返るのが今の話。

佐藤浩市の役名高松が揶揄してきかんしゃ高松(こうまつ)と呼ばれるわけだが、SLに佐藤の顔を貼りつけたデザインはきかんしゃトーマスそのままながら色とか型式が全然違うのは版権に気を使っているのでしょうね。





「ゾッキ」

2021年04月10日 | 映画
ゾッキという言葉を辞書で引くと、
 投げ売りなどによる安売り。
 全部ひとまとめにして売買すること。
と載っている。

俳優の竹中直人、山田孝之、齊藤工が大橋裕之の初期マンガ作品集「ゾッキA」「ゾッキB」それぞれ監督したのをつなぎ合わせた作り。
ただし、どこからどこまでがひとつづきのエピソードで、どのエピソードを誰が監督したのかはエンドタイトルで見るまでわからないし、ずらっとまとめてエピソードと監督と出演者の名前が並んでもどこからどこまでがまとまっていたのかはおよそつかみずらいので、それこそ「全部ひとまとめにして売買する」になる。

一本の映画とすると、どういう具合に全体像をつかんで個々のエピソードがどうその中で位置づけられるのか見当をつけるのが、ひどく難しい。
いったん終わったかと思うと、間をおいてまた始まったりする。
普通は見ながらここでどんでん返しがくるぞとか、ここからがクライマックスだろうと見当つけながら見るわけだが、そういうペースがつかめないというのはなんと疲れるものかと思う。

ひとつひとつのエピソードの流れは面白いのだから、もうちょっときちっとしたオムニバス形式にできなかったものだろうか。
どれを誰が監督したかわからないから、監督の腕比べを楽しむという見方もしにくい。


「まともじゃないのは君も一緒」

2021年04月09日 | 映画
成田凌と清原果耶の演技の息の合い方外し方の呼吸が抜群。
ほぼセリフ劇なのだけれど、セリフひとつひとつそのものの暗示性能と必ずしもそれと合わさずに漣のように微妙に変化する表情とで映画の表現になっている。

清原果耶がこれからの生き方を教えてくれると勘違いする有名人が小泉孝太郎というキャスティングが絶妙。ニセモノ感と当人の周囲が勝手に盛り立てている感じがよく生かされた。

外的なコンプライアンスの問題なのか、作者の側の節度というか、18歳の女子高生という設定にありがちな紋切りな展開を周到に避けている。
酒を呑みそうで呑まないまま、酔っぱらいそのまんまの振る舞いするところなど笑ってしまう。

普通という言葉があまりに頻出するもので、逆にどういう意味だとわからなくなる。もともと正確な定義があるものではないので、なんとなく事後的に決まったような気になるものなのを、改めて知る。

横浜のロケーションが観光名所にこだわらないけれど横浜らしさを出した。フェリス女学院がある坂とかちらっと見える看板でわかるようにしている。




「十九歳の地図」

2021年04月08日 | 映画
1979年製作。ほとんどタイムマシン感がするくらい今とは違う時代が詰まっている。

まず、主人公の青年が新聞配達している苦学生という設定からして今ではほとんど考えられない(新聞の購読料が三ヶ月6000円)。
もちろん今でもまがりなりにも新聞の宅配は続いているが、今描くとしたら配達員に外国人がいないというのはまず考えられない。
配達先にちらっと白菜を切ってキムチを作っているのであろう韓国系の姿が見えたりするが、外国人の数はもう桁外れに増えた。

舞台は新宿の大久保近辺だろうか、驚くほどごみごみしていて外国人はあまりいないがアジア的テイストがむんむんしている。
今の小綺麗さはおよそ想像できない。

柳町監督は後年「愛について、東京」「チャイナ⋅シャドー」「恋するパオジャンフー」などアジアとの関わりを描く方向に向かうことになる。

新聞を配ってまわる家一軒一軒が、貧乏人は貧乏人なりに、小金持ちは小金持ちなりになんともいえない俗物性にまみれていて、それに対して青年が苛立ちと憤懣を募らせていくのはこれが作られたちょっと前の「タクシー⋅ドライバー」を思わせもする。

短いスケッチで一軒一軒それぞれの状況を的確に描き出すリアリズムが冴えていて、一方でジャズ音楽の使い方、街の風景との取り合わせがスタイリッシュ。

ただその憤懣が手製の地図にいちいち✕をつけて、時折公衆電話(!)から嫌がらせの電話をかけるというなんともセコい形でしか現せない。
今だったらツイッターで粘着するところだろうか。

右翼的なものに憧れるイメージシーンもあるが、これまた今にしてみるとよくわかる。

地図に書かれる漢字の書き順がめちゃくちゃなのだが、今の感覚だと漢字書けるだけ教養(教育)あるとも言える。

沖山秀子が演じているかさぶたのマリア(かさぶた式部からの連想か)というキャラクターは中上健次の原作では姿を現さず電話の向こうにいるのと会話するだけなのだが、画面に出してしまうとやはり観念性が先に立つ。



「きまじめ楽隊のぼんやり戦争」

2021年04月07日 | 映画
ごく抽象化された村でなぜか川向こうの敵の姿も見えないまま戦争状態にあるという設定。服装などは先の戦争(日中戦争〜太平洋戦争)のイメージにしてある。

半ば通勤して業務に就くように兵隊たちは毎日やってきては川向こうに銃を撃ち込む。
それではまったくの兵隊ごっとかと思うと時折川向こうから銃弾が飛んできて負傷者が出たりする。

抽象的で寓話的、そしておそらくは喜劇的な戦争イメージを造型しようとさまざまな匠気を凝らしていて、画作りはウェス⋅アンダーソンばりに極度に平面的で、ほぼ全編真っ正面からのアングルをとり続ける。セリフの調子もわざとのように調子外れに間延びしている。
美術はかなりよくできていて、ほぼアートフィルムといっていい(つまり大衆性が薄い)作りの割に画面に一定の厚みはある。

ただ正直、抽象化や寓話化があまりにあからさまで最初から底が割れている印象は否めず、戦争なり過剰な日常性なりの表現に目新しさや凄みはあまりなく、相当にかったるい。





「パリ・ルーヴル美術館の秘密」

2021年04月06日 | 映画
ルーブル美術館の舞台裏を捉えたナレーションなしのドキュメンタリー。

まず裏方の数の多さと建物の規模の大きさが圧巻。
広すぎて移動するのにローラースケートを使っているのが、なんとなく可笑しい。

展示室でピストルを発射し、その音がどう響くか測定しているらしき光景など、それ自体何を調べるためなのかわからないなりに一種の珍景として印象的。

数々の美術品が展示される前は相当にかさばる重量感のあるモノであることがわかる。
それらを扱う文字通りの腕力と繊細さ。

彫刻類が運搬される光景など、フェリーニ映画の場面を見るよう。



「典座 TENZO」

2021年04月05日 | 映画
公式サイトより引用。
典座とは禅宗の寺院においての僧侶やお寺への参拝者の食事を司る役職。
調理や食事も重要な修行とする曹洞宗では重要な役職とされ、曹洞宗の教えを日本に伝えた道元禅師は著作「典座教訓」の冒頭で、典座には古来より修行経験が深く信任のある僧が任命されてきたことを述べている。

さまざまな光景の映像が寄り集まってお釈迦さまの足の裏になり、僧が裸足になって草の上を歩く光景につながるといった具合に個々はリアルな画面が連想法のようにして美学的に画面が展開していく。

頂きますと食べる前に言うのは命を頂きますという意味だとはよく言われるが、救わなくてはいけない側の僧も食べないと生きていけないといった矛盾は、肉体労働についたり、いのちの電話を受け持つガタイのいい兄弟子といった、3:11の被害の実写から仏教や僧は何ができるのかという問いあるいは疑問にストレートにつながる。





「ミナリ」

2021年04月04日 | 映画
世話役のようにしてやってきた祖母が、いわゆる韓国のオムニのイメージをおよそ覆して料理もしなければ片膝ついてぱちりぱちりと子供相手に花札をやっているあたりのアジア人女性のつつましく控えめというイメージとはおよそ無縁の豪放さが素晴らしい。

プロレスのテレビを見て大喜びしている姿など、私の祖母の姿にもろにかぶって懐かしいというより日本でも浅草あたりに意外と珍しくなかった、昔の言葉でいう鉄火肌の人たちなのではないかと思った。

学校に行っている場面はなくて、アメリカではいわゆる義務教育というのがないのがわかる。
トレイラーハウスの親戚みたいな列車の車両を改造した家という設定も面白い。
おねしょをはじめ、おしっこが命の証しになっている表現が下品にならない。

レーガン政権(1981〜89)の時代という設定だから、韓国では独裁政権から民主化への移行期ということになる。映画でいうと「1987 ある闘いの真実」「タクシー運転手」の時代で、おそらく動乱と弾圧を逃れてきたのだろう。

夫が懸命に農業で成功しようとして知らず知らずに家族を顧みない、うまくいけばいいというものではない、うまくいく時もいかない時も家族は協力しないとと妻が責めるあたりのすれ違いが図式ではなく肉質をもって描けた。




「呪いの館」

2021年04月03日 | 映画
コクトーの「美女と野獣」ばりに腕の形をした燭台、表現主義的に隈取りの深い照明、のちのダリオ・アルジェントを思わせる原色の使い方。
限られたセットを使い回して迷宮感を出した演出。
撮影監督出身のマリオ・バーヴァらしい。
前にも見ているのだが、これくらいカラフルだとは思わなかった。

「世にも怪奇な物語」ばりの少女の使い方の巧みさ。窓の桟を顔の真ん中にいれて覗いているという現実には見ずらいだろう見方をしているのが超現実感を出した。
Valerio Valeriという少女なのだが、他に出演作はまったくない。




「スタンリー・キューブリック ライフ・イン・ピクチャー」

2021年04月02日 | 映画
スタンリーの父親がとっただろうホームムービーが見られる。妹と一緒にいるところが多い。後年、女嫌いだと言われたりしたけれど、女性に囲まれていることがむしろ多い。

初期のドキュメンタリー「拳闘試合の日」で、共作したジェームズ・ハリスはキューブリックがこの映画で、得するのは僕だけだからさと豪語したものだと語る。

「現金に体を張れ」の撮影のルシエン・バラードはずっと年下の若僧監督にはレンズの違いがわからないだろうと思ったらしいが、もちろんキューブリックはレンズの画角、効果など知悉していた。
バラードがマールオベロンと結婚していたとは知らなかった。


「スパルタカス」の冒頭のシーンは初めに契約していたアンソニー・マンが演出したらしい。あまり見分けつかない。

「スパルタカス」で優れていたのはキリストが出ないことだ、という意見が紹介される。そういやそうだ。

カーティス・ルメイはソ連上空に爆撃機を送ることを本気で構想していたという。
サイコだと言われるが、実際そうだ。そうでなくて東京大空襲を計画して実行するものか。(それを表彰する日本のトップもいい加減サイコだが)

「博士の異常な愛情」の撮影現場ではキューブリックはセラーズの観客になったように次々と繰り出されるアドリブを喜んで見ていたという。

「シャイニング」は楽天的な作品だ、死後の世界を描くのは楽天的ですよという発言。

リゲティのインタビューでスターリンの胸にナイフを刺すつもりで作曲していたという発言にぎょっとする。



2021年3月に読んだ本

2021年04月01日 | 
読んだ本の数:14
読んだページ数:1529
ナイス数:3

読了日:03月01日 著者:チョ・ナムジュ





読了日:03月02日 著者:島本 和彦





力石のモデルになったとかバキの蹴りは山崎氏がもとになっているといった話は掴みとしてはいいものの、山崎氏その人の、空手は大学卒業までと割りきってあちこちからの金銭的な誘惑にも乗らず、プロ格闘家としての栄達も望まず生きた人となりや魅力を見るのにはむしろ妨げになっている感もある。
読了日:03月04日 著者:森合正範



読了日:03月09日 著者:三田村泰助





前半のいかにして日本がデジタル行政化に失敗したかという分析は具体的で緻密なのだが、後半は実際にデジタル化に携わる人たちのインタビューが主になることもあって、デジタル化のマクロな狙いや未来図はわかるものの、失敗を反省し反映させる視点が乏しい。 マイナンバーが国民背番号制による管理ツールだという“誤解”を解く意識も不十分。マイナポータルに生命保険金控除を結びつけて確定申告の手間を省く(これから医療費控除も加わる)といった機能などまるでアナウンスできていない。
読了日:03月13日 著者:日経コンピュータ



読了日:03月14日 著者:猿谷要





読了日:03月16日 著者:トマス・マン





読了日:03月17日 著者:




 
読了日:03月18日 著者:二ノ宮 知子



読了日:03月22日 著者:西川昌希





読了日:03月22日 著者:平塚雅人





読了日:03月30日 著者:池上 彰,的場 昭弘





読了日:03月30日 著者:井上雄彦



読了日:03月31日 著者:安田峰俊