1979年製作。ほとんどタイムマシン感がするくらい今とは違う時代が詰まっている。
まず、主人公の青年が新聞配達している苦学生という設定からして今ではほとんど考えられない(新聞の購読料が三ヶ月6000円)。
もちろん今でもまがりなりにも新聞の宅配は続いているが、今描くとしたら配達員に外国人がいないというのはまず考えられない。
配達先にちらっと白菜を切ってキムチを作っているのであろう韓国系の姿が見えたりするが、外国人の数はもう桁外れに増えた。
舞台は新宿の大久保近辺だろうか、驚くほどごみごみしていて外国人はあまりいないがアジア的テイストがむんむんしている。
今の小綺麗さはおよそ想像できない。
柳町監督は後年「愛について、東京」「チャイナ⋅シャドー」「恋するパオジャンフー」などアジアとの関わりを描く方向に向かうことになる。
新聞を配ってまわる家一軒一軒が、貧乏人は貧乏人なりに、小金持ちは小金持ちなりになんともいえない俗物性にまみれていて、それに対して青年が苛立ちと憤懣を募らせていくのはこれが作られたちょっと前の「タクシー⋅ドライバー」を思わせもする。
短いスケッチで一軒一軒それぞれの状況を的確に描き出すリアリズムが冴えていて、一方でジャズ音楽の使い方、街の風景との取り合わせがスタイリッシュ。
ただその憤懣が手製の地図にいちいち✕をつけて、時折公衆電話(!)から嫌がらせの電話をかけるというなんともセコい形でしか現せない。
今だったらツイッターで粘着するところだろうか。
右翼的なものに憧れるイメージシーンもあるが、これまた今にしてみるとよくわかる。
地図に書かれる漢字の書き順がめちゃくちゃなのだが、今の感覚だと漢字書けるだけ教養(教育)あるとも言える。
沖山秀子が演じているかさぶたのマリア(かさぶた式部からの連想か)というキャラクターは中上健次の原作では姿を現さず電話の向こうにいるのと会話するだけなのだが、画面に出してしまうとやはり観念性が先に立つ。