実は上映途中で二人ばかり出て行ってしまったのだが、それもムリない。
何しろ「リアリティ」のある世界を通常の「感情移入」して見るという「普通」の見方はまずムリ。
たとえばヒロインのアレクシアは途中で自分で髪を切って自分で鼻を殴って曲げて大きく外観を変えるのだが、十年前に出ていった息子を探している、見ればわかるという中年男ヴィンセントがそれを見て息子だと言い出して自宅に連れ帰る。
しかしいくら顔かたちを変えたといっても女だということは隠しようがないのだが、ヴィンセントはヒロインが裸になって乳房と妊娠しているお腹まで見ていても、ずうっと息子扱いし続け、ついに性別の違いを取沙汰することはない。
普通ならありえない話。つまりこれは普通の世界ではない。
アレクシアは愛称でアレックスと男名前で呼ばれたりする。(余談だけれど「フラッシュダンス」と「危険な情事」のエイドリアン・ライン監督のヒロインの名前がともにアレックスという男名前なのはどういうことかと聞かれたラインがしれっとそんなの初めて知ったととぼけていた。
エイドリアンは女名前だがライン自身は男。
妙に性差と名前が混乱している)
ヴィンセントは消防夫というかなりマッチョな世界で自分を神だとさらっと言ったりしている。
男ばかりの世界に女が一人混ざったら通常どれだけ仲間外れにされるかと思うが、いかに隊長のヴィンセントが睨みを効かせているとはいえ、アレキシスを女として眺めわたすことはない。
バスの中で黒人女性とアレキシスとが同じ列の両端に乗っているところで、後部座席の男たちが聞くに耐えないような卑猥であくどく女性差別的なからかいの文句を並べるのだが、それが黒人女性に向けられているのかアレキシスに向けられているのか、両方なのか、明らかにわざと曖昧な描き方をしている。
つまりアレキシスはここでも女として見られるかどうかの境界線上にいることになる。
ヒロインは子供の時に交通事故で負傷してチタンを頭部に埋め込まれたのだが、その無機物の金属と有機物の肉体とが一体化して暴走していく。
無機物と有機物との混淆という物質感で、これに似た先行作品というのはいくつもあって、「鉄男」「ビデオドローム」などのクローネンバーグ作品、諸星大二郎「生物都市」、「デモン・シード」などが思い浮かぶ。
それらに連なって独自なのはヒロインが男目線で見られる女という意味付けから外れていること。
性別と関係ない無機物、つまり自動車とセックスして妊娠するという奇想天外な着想もそこにつながると思う。
音楽というより音響効果が絶大。このあたりも「鉄男」っぽい。