gooによれば、川端文部科学相が20日の閣議後会見で、「現在は著作者の死後50年としている著作権の保護期間を、死後70年に延長する著作権法改正に意欲を示した」そうである。
文科相、著作権保護期間70年への延長に意欲(朝日新聞) - goo ニュース
「70年はある種、世界標準。その方向で進めるべきだ」という認識のようだが、私はこれ以上著作権というあいまいもことしたものを強大にすることには疑問がある。
その理由は、幾つかあるが、まず第一の理由として、大きくは同じ知的財産権にくくられる特許権などの産業財産権とのバランスが悪すぎることがあげられるだろう。特許権の場合は、保護期間は原則出願から20年である。しかし、特許の場合は、特許庁の審査に非常に時間がかかるため、権利が確定するまでは5年程度の審査期間が必要なので、実質の権利期間はもっと短くなる。これに対して、著作権の場合は、創作時から権利が発生し、現状でも作者の死後50年は権利期間が続くのである。そして、特許などのような審査もなく、保護の要件となる「自らの思想・感情を創作的に表現」することは、一般にかなり広く解釈されるので、例えば幼稚園児の落書きのようなものでも立派に著作権の対象となる。だから、3歳の幼稚園児の落書きを死後70年も保護するとすれば、80歳まで生きたとして、150年近くも保護が続くのである。あまりにも長すぎはしないだろうか。もちろんこれは極端な例であるが、そもそも著作権法は、「著作者等の権利の保護」を図ることにより「文化の発展に寄与する」ことを究極目的としている。この目的に照らしてみると、著作者本人の権利を守ることには意味があるだろうが、孫やひ孫の代まで手厚い保護を行う必要があるかどうかは疑問である。そして、権利を与えられた者には、義務も生じる。その義務とは、権利期間終了後は、これを社会一般の共有財産として提供するということなのである。100年以上も権利が続くと、義務を果たさないうちに多くの著作物は消え失せてしまうだろう。権利と義務のバランスが極端に悪くなるというのが第二の理由である。
そして、第三の理由は、著作権というもの自体が、元々かなりあいまいで複雑なものであるということだ。著作権は、表現を保護するのだが、ほとんどの著作物は、過去の遺産から多かれ少なかれ影響を受けているものである。だから、著作者は、限られた一部だけをみると、無意識に記憶の底にあった表現を使っているという可能性も否定できない。そしてどの程度似ていれば、侵害になるのかも今一つはっきりしない。著作権の場合は産業財産権と異なり、元の著作物に接していなければ、いくら似ていても著作権法には抵触しないのだが、この証明は一般にはまず不可能であろう。更に著作権は、これに付随して、著作者人格権や著作隣接権といった権利も付きまとうため、あまりにも複雑すぎる。複雑であいまいなものを必要以上に保護することにどれだけの意義があるのだろうか。しばらく前に、漫画家と歌手との争いがあったが、これがひ孫同士で行われているところを想像すると、もはや滑稽以外の何物でもない。
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・アゴラ 津田大介
・keitaro-news
・la_causette
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その理由は、幾つかあるが、まず第一の理由として、大きくは同じ知的財産権にくくられる特許権などの産業財産権とのバランスが悪すぎることがあげられるだろう。特許権の場合は、保護期間は原則出願から20年である。しかし、特許の場合は、特許庁の審査に非常に時間がかかるため、権利が確定するまでは5年程度の審査期間が必要なので、実質の権利期間はもっと短くなる。これに対して、著作権の場合は、創作時から権利が発生し、現状でも作者の死後50年は権利期間が続くのである。そして、特許などのような審査もなく、保護の要件となる「自らの思想・感情を創作的に表現」することは、一般にかなり広く解釈されるので、例えば幼稚園児の落書きのようなものでも立派に著作権の対象となる。だから、3歳の幼稚園児の落書きを死後70年も保護するとすれば、80歳まで生きたとして、150年近くも保護が続くのである。あまりにも長すぎはしないだろうか。もちろんこれは極端な例であるが、そもそも著作権法は、「著作者等の権利の保護」を図ることにより「文化の発展に寄与する」ことを究極目的としている。この目的に照らしてみると、著作者本人の権利を守ることには意味があるだろうが、孫やひ孫の代まで手厚い保護を行う必要があるかどうかは疑問である。そして、権利を与えられた者には、義務も生じる。その義務とは、権利期間終了後は、これを社会一般の共有財産として提供するということなのである。100年以上も権利が続くと、義務を果たさないうちに多くの著作物は消え失せてしまうだろう。権利と義務のバランスが極端に悪くなるというのが第二の理由である。
そして、第三の理由は、著作権というもの自体が、元々かなりあいまいで複雑なものであるということだ。著作権は、表現を保護するのだが、ほとんどの著作物は、過去の遺産から多かれ少なかれ影響を受けているものである。だから、著作者は、限られた一部だけをみると、無意識に記憶の底にあった表現を使っているという可能性も否定できない。そしてどの程度似ていれば、侵害になるのかも今一つはっきりしない。著作権の場合は産業財産権と異なり、元の著作物に接していなければ、いくら似ていても著作権法には抵触しないのだが、この証明は一般にはまず不可能であろう。更に著作権は、これに付随して、著作者人格権や著作隣接権といった権利も付きまとうため、あまりにも複雑すぎる。複雑であいまいなものを必要以上に保護することにどれだけの意義があるのだろうか。しばらく前に、漫画家と歌手との争いがあったが、これがひ孫同士で行われているところを想像すると、もはや滑稽以外の何物でもない。
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