本が好き、悪口言うのはもっと好き (ちくま文庫) | |
クリエーター情報なし | |
筑摩書房 |
・高島俊男
本書のタイトルを見て若干ドキリとした。なんか自分のことを言われているような気がして・・・・・(笑)。
それはさておき、著者は東大経済学部を卒業後銀行に5年ほど勤めたが、東大文学部に入り直し、そのまま大学院まで出て中国文学者になった人だ。そのためか、言葉の使い方には一家言ある。例えば、囲碁番組の中で使われた、「囲碁ファン」という言葉に対して次のように言う。
<そもそも「ファン」とは何か。
「ファン」とは、自分がそれではなく、あるいはそれをするものではないが、それが大好きである、という人間のことである。>(p30)
要するに、自分でやってはいけないということだ。高校野球選手を「高校野球ファン」とか、生け花をやっている人を「生け花ファン」とは言わないだろうというのである。囲碁の番組を視ている人で囲碁をやらない人はいないだろうから、「囲碁ファン」という言葉はおかしいというのである。
ここでなるほどと思うのが普通の人。何事にも疑い深い私は、そもそもの原語である fanの意味を調べてみた。ネットのロングマン英英辞典では、「someone who likes a particular sport or performing art very much, or who admires a famous person」、手持ちのThe Concise Oxford Dictionaryには、「Devotee of a specified Amusemennt」とある。どこにも、自分が参加してはいけないと書かれてはいない。まあ著者の言うことも分かるので、結局はケースバイケースということだろうか。
私がよく読む土屋賢二さんの著作で、「ツチヤ教授の哲学講義」(文春文庫)という本の中に、哲学者の中には常識的な言葉の使い方に対してイチャモンをつけ、勝手に言葉の規則を変えている場合があるという趣旨のことが書かれているが、著者にもどうもそんなところを感じてしまう。
また、著者は編集者といろいろ悶着を起こしているようだ。「しにか」編集部とは、3ページの短文に二十六か所の書き換えがあり、角川書店の「鑑賞中国の古典」シリーズ第十六巻の巻末の「李白の窓」という欄用に書いた、「ネアカ李白とネクラ杜甫」では六百か所だか八百か所だか、大量の直しが入ったので、原稿を引き上げたという。(後者は著者が原文通りにするということで掲載されたようだが)。これは編集者側が勝手に原稿の修正をしたというのが理由だ。
これは私も雑誌や新聞の投稿で似たような経験がある。編集者というのは、自分が一番偉いとでも思っているのか、勝手に文章を付け加えたり、幼稚園児が書いたような稚拙な文章に直されたことがあった。確かに趣旨は変えない範囲で修正をすることがあるとは書かれているが、文章の付け加えなどは、完全にその範疇を超えている。
この他、支那は中国の蔑称ではないという主張など、色々納得できる話も多いが、最後に一つ。言葉とは時代の流れとともに変わっていくものだ。あまり、これが正しい使い方だと言われると、古文の教科書のような言葉こそ本当の日本語ということになってしまう。しかし、今どき、古文のような言葉の使い方をしても分からない場合が多いだろう。読後感はなんだかなあという感じか。
☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。