場を支配する「悪の論理」技法 | |
クリエーター情報なし | |
フォレスト出版 |
・とつげき東北
・フォレスト出版
本書で言う「悪の論理」とは、「理屈では間違っているのに、一見正しいとされる論理」のことだ。著者によれば、この「悪の論理」が世の中に多く流通し、無自覚に使われているという。本書ではそんな詭弁とも思える多くの「悪の論理」が紹介され、それに対して的確なツッコミを入れている。
少し言わせていただくと、本書には現役京大生との論争が掲載されている。幼稚な議論を繰り広げる相手に対して<これがただの人なら「バカな人だなあ」で済む話だが、当時現役の京都大学生だったのだから酷い>(p036)と述べている。しかし、あそこは1万人くらいの学生がいる。つまり京大生といってもピンキリである。私の経験からは、京大生にも残念な人はいくらでもいるのだ。だから別に驚くにはあたらない。
私も昔はブログやツイッターなどで、よく論争をしていた時期があった。議論を戦わせることは自分の論理力を鍛えることになるだろうと考えたからだ。しかし寄る年波のせいか、最近では面倒くささが先に立ちいっさい論争はしないことにしている。それにバカはいくら論破されたからといって、決して心の底から自分の考えを変えることはないことも実感したからだ。
著者の次の主張には賛成だ。
<たまに「哲学」といったものをやたら有り難がる連中がいるが、さすがにもういいだろう。哲学とは、すべての学問のうちで、ほとんど最もレベルが低い。きちんとした学問の形になる領域は、哲学ではなくなるからだ。>(p172)
要するに哲学とは、学問の残りかすということだが、これを聞くと哲学専攻の徒は顔を真っ赤にして起こるだろう。やれ哲学は考える力を養うだのと反論が聞こえてきそうだが、いまどき古代ギリシアの人間などをありがたがるものが他にあるのか。それに考えることはなにも哲学の専売特許ではない。
お茶の水大名誉教授の土屋賢二さんによれば、哲学には常識的な言葉の使い方にいちゃもんをつけてどうこういっている連中がいるらしい。例えばベルクソンの時間論である。彼は本当の時間とは時計では測れるものではなく、「純粋持続」だとか訳のわからないことを言っている。しかしそれをありがたがる連中が多いのは確かだ。また、ハイデガーの研究者として有名だった故木田元さんは、「哲学は何の役にも立たない」とその著書の中で明言している。
私にはソクラテスもプラトンもアリストテレスもデカルトもカントもどうでもいいが、個別に見ればその考え方に興味惹かれるものがあることは事実だ。しかし、それをもって哲学全体を認めている訳ではない。
本書を一読すれば、世の中に多く溢れる、尤もらしいがどこか違うなあという主張に対して突っ込むことができるようになるだろう。それにしても、著者のこのペンネームはどうにかならないものだろうか。いくら良いことを言っても、うさん臭さの方が先に立ってしまうのだが。
☆☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。