本書は、エッセイと自由律俳句で構成されている。自由律俳句とは五七五の定型に捕われない俳句である。エッセイは、著者の日々の出来事を綴ったもので、日付こそ入っていないが、どうしても昔の自由律俳句で有名な種田山頭火の日記と比べてしまう。
著者は京大の総合人間学部出身だという。これは、教養部が前身だ。私たちの年代は、学部に関わらず、専門に進む前にみんな教養を通っているので、そういった意味では、私も著者の先輩と言うことになるのかもしれない。
これはホンマかいな。
総合人間学部では、例年、四回生の三分の一が就職、三分の一が大学院に進学、そして残り三分の一が留年する。(p78)
ちょっと留年率が高すぎないか?私は工学部電気系(現電気電子工学科)だが、同級生は殆ど大学院に進み、一部は就職。留年者はいたことはいたが、その数は少なかった。もし本当だとしたら、よほど総合人間学部が厳しいのか、学生がアレなのか?
俳句にしてもエッセイにしても、ユーモラスなものが多い。いくつか紹介してみよう。
同級生に厄年を心配される(p10)
不惑で知ったドラえもんの正しい描き方(p68)
ごまかしても乗り過ごしたのはみな知っている(p117)
一方、山頭火の日記は、酒を飲んで気楽にやっているように見えて、行間から寂寥感のようなものがにじみ出てくる。山頭火の句に駄作がないとは言わないが、
分け入っても分け入っても青い山
鴉啼いてわたしも一人
のような心にしみるような句は見つけられなかった(少なくとも私は)。これは、もしかしたら著者には学歴も弁理士のように立派な職業もあるのに対し、山頭火はまったくといっていいほど生活能力がなく、友人たちの援助で、乞食坊主と言ってもいいような暮らしをしていたことに起因するのかもしれない。
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