マリヤンカ mariyanka

日常のつれづれ、身の回りの自然や風景写真。音楽や映画や読書日記。手づくり作品の展示など。

水俣へ、その1

2013-11-28 | 
水俣へ行ってきました。
中学と高校の修学旅行で、阿蘇と熊本城へ行きましたが、
水俣へ行くのは初めてです。
案内して下さる方があって、
水銀に汚染された湾のヘドロを浚渫して埋め立てた(水銀は消えたわけではなく移動しただけ)埋立地に建てられた資料館や、道の駅(シラスとアオサのかき揚げ丼、美味しかった!)にも行ってきました。
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明治41年(1908年)にチッソ工場が水俣に出来ました。
不知火湾は「魚わく海」と言われるほど豊かな漁場で、
水俣湾は多くの魚の産卵場所でした。
入江ごとに小さな漁村があってあって、天草の島々が海の向うに浮かんでそれはそれは美しいところでした。
チッソは化学肥料の生産と同時にアセテアルデヒドを生産する(昭和7年)ようになり
日本の高度成長を支える重要な化学工場になります。

(現在のチッソの工場の一部です。工場の向こうは海。)

アセトアルデヒドは日常のありとあらゆるものの原料となっています。
身の回りのプラスチックかな、ビニールかな、と思われるような物の殆どにアセトアルデヒドが使用されています。
現在、世界の液晶の半分近くを水俣のチッソ(JNCと社名が変わった)で作っているそうです。

アセトアルデヒドを作るときに発生するメチル水銀には強い毒性があります。
毒と知りながらチッソは2か所の排水溝から海へ垂れ流していました。
(その水銀の量は70~150トン以上と言われ、水銀を含んだ汚泥は場所によっては4メートルに達している。)

1956年(昭和31年)に初めて「原因不明の奇病」が確認されました。
原因が解ってからも多くの人が病気で苦しんで亡くなっても、
ネコの実験で因果関係がはっきりわかっていたのに、
1968年(昭和43年)まで36年間に亘って有害な排水は工場から流され続けました。
長い裁判が続き、生きている内に救済を、という声の高まりの中で和解が行われたのが1995年のことでした。
国と県が工場排水を規制をせず、被害を広めたことで責任を認めたのはなんと2004年のことです。

・・・とここまで、資料館でいただいた子供向けのパンフレットを参考にして書かせてもらいました。

資料館ではちょうど小学生が観光バスで見学に訪れていました。

アセトアルデヒドが使われている日常品のディスプレイを熱心に見ながらメモをとる子どもたち)
熊本県内の小学生は必ず訪れることになっているそうです。
語り部さんの話を聞いたり映像で学習したり、
子どもたちのための展示も工夫が凝らしてあります。

(鉄や水銀などの金属の比重の比較、水銀の上に鉄のボルトが浮いている。)

他県の小中高の修学旅行で阿蘇に行くなら是非、水俣をスケジュールに組み込んでほしいなと思いました。
勿論水俣のことを知らない大人が訪れてもしっかり理解できるようになっています。
「ミナマタ」を知ることは世界中の公害問題を考える上で非常に大切で、
「フクシマ」の今を考えるためにも一層「ミナマタ」は重要だと思います。

経済発展(金)のためには人の命、人の暮らしはまるで虫けらの命のように軽く、
後になって「慰霊碑」を立てて犠牲になった人のために祈る、
こんなことを幾度繰り返すのでしょう。
戦争でお国のために死んだ兵士は神になったと言って「忠魂碑」を立てる図式と全く同じです。
犠牲の無い社会は存在しないのかもしれませんが、
少しでも犠牲を減らす社会を目指すのが人間の生き方ではないかと思います。
水俣へ行って、水俣湾を眺め、
チッソ工場を見て、排水溝を見て、
小さな漁村を見て、ミカン畑を見て、
沖を行く漁船を見て、埋立地を見て、
協立病院へ行って、
そんな思いを強くしました。












コメント (4)
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