蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

宗教 ②

2008-08-18 | 
私は、なにも、新興宗教や、外国の宗教に改宗しようといているわけではない。
頭からなにも考えずに、ただただ言われるままに、信じる、ということが、
納得がいかないだけなのだ。

宗教は、心の問題。
人に指図されて、信じるものではないと思う。
キリスト教の踏み絵が頭に浮かぶ。
キリスト像を踏むぐらいなら、死を選ぶ人もいるぐらい、
たかだか宗教とは言えない、ナイーブで、激しい問題なのだ。
信仰の違いで、古今東西、多くの人が血を流している史実も多々ある。

しかしながら、私は、なるべく波風を立てないように、
婚家では行事はこなしている。
お墓にも参る。
仏壇で手も合わせる。
ただ、それは、ポーズであり、私には大して強い揺ぎない宗教心など無いのだ。

ところが、お経を唱える、となると、
ポーズでは済まされないことだと、私はこの度、感じた。

人の心を無理矢理、従わせさせようとしても、拒絶反応が起きるばかり。
自然な流れで、ある年齢に達したら、あるいは、重い病気でもしたら、
科学では解明できない困難や不安を解消する必要性が生じた時、
あるいは、強い願い事をし続ける場合(勿論、努力をし続けて)
自分の力ではどうにも出来ない事態に直面して、
自然に宗教心が芽生え、感謝の心も生まれてくるのではないかと思う。

早急に、焦って、時期を待たずに従えさせようというなら、
本来、心の安定を得るはずの宗教なのに、逆の作用が働く。

現代のように価値観が多様になると、情報に振り回されすぎて、本筋を見失う。
私のように、頭でっかちな嫁が、うじゃうじゃ出てくるのだろう。

信仰は毎日の生活にとけこみ、伝えられる。
不幸を避けようとする先人たちの知恵である宗教は、
揺れる心をひとつにまとめて、大きな心の支え、指針、導きになっている。

だが、そういう悟りに近い心境に達するには、時間がかかる。
何の情報もない昔ならいざ知らず、
手順を踏まず、いきなり「読経」には抵抗がある。

右を向けと言われたら、
何故そうするのかもわからず、わかろうともせず、
いつまでも右を向いているような従順な嫁が、今時、いるとすると、
それは単に何も考えてないだけだ。
思考力ゼロだ。
それを善しとするなら、嫁には人形かロボットをもらえばいい。

ただ、何でもかんでも、すべて感情で反抗するのも、愚かである。
自分が納得すれば、従えばいいし、納得できなければ、次善策を練ればいい。

今回の出来事は、嫁としての、自我の目覚めだった。(かなり遅いけれど)
言われた通りに、なんでも聞き入れている自分が嫌だったのだ。
自分なりに自問自答し、試行錯誤の結果、
たとえ元の姿に戻っても、それはそれで意味があると思っている。

すんなり受け入れるより、よけいなエネルギーが必要だけど、
自分自身と対峙する、いい機会だ。