先週、舞子ビラで夜から開催される、古田選手のトークショーついでに、
三宮で途中下車して、コロー展を観た。
私は、いつも、ちょっとのことで出かけるのは、能率が悪いと感じる。
はやい話、面倒くさがりだ。
遠くまでわざわざ出かけるからには、ジャンルは、まるで無関係でも、
2件はハシゴしたい。
なので、強引に、コロー展。
地理的に、大阪より西に位置するところから、選んだ。
前に、「オルセー美術館展」を観に来て以来の、神戸市立博物館だ。
平日の閉館近くということもあり、他の人が邪魔にならなくてよかった。
カミーユ・コローは、1796年、パリのブルジョワ家庭に生まれた。
26才で、家業を離れて本格的に画家を目指すことが許されたコローは、
自然に対するみずみずしい目と感性で、 風景画家としての地位を築き、
人物画でも傑作を残した。
古典の伝統をふまえつつ、確かな造形力で独自の詩的世界を作り上げ、
彼の影響を受けた芸術家は、ルノワール、モネ、マチス・・・と後を絶たない。
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誰もが一度は見たことがある、学校の教科書にも載っているコローの絵。
絵画といえば、コローを知らない、と話にならないかなあ・・・と
後学のため、観にいったようなものだった。
時代の表舞台に光り輝く、超正統派、優等生中の優等生といったかんじ。
時代の先駆者となる構図、色使い、筆致、ストーリー性、当時の風景・・・
説明にあるままに、素直に、ふむふむ、なるほどなぁ、と歴史的大作の数々を
ひとつひとつ丁寧に観た。
確かに素晴らしいのは、言うまでもないが、なぜか、すんなり、行き過ぎてしまった。
前回観た、首の長い、アーモンド目の、やたら赤い顔、はっきり言って、へんな絵の
モディリアーニのほうが、ずっと後々、心のどこかにひっかかって印象的だった。
ひょっとして、私は、絵を見る目が、変化したのだろうか?
これも成長?
それとも、正統派に対する、コンプレックス?
モディリアーニのときは、音声ガイド器(有料)を借りなかったけれど、
今回は、奮発して(500円!!)借りたというのに。
中村吉右衛門が説明指南役だった。
行政も、予算がたっぷりなのか、
彼が、芸術理解者で、安めのギャラで引き受けたのか、
はたまたナレーション料は、相場として、そう驚くほど高くないのか?
ガイドが終わる頃になって、名前が流れ、意外だった。
渋いというか、思い入れたっぷりの年配の声だなあ、とは思っていたが、
無名のナレーターでも別によかったのでは、などと小市民的な私。
なんの先入観も、知識もない真っ白なままで、いろんな絵を観たい。
それは、絵に限らず、芸術全般、建物、人物、風景、街、・・・なんでもかんでも。
見るものだけでなく、五感で感じるすべてを。
自分の好みをリトマス試験紙でチェックしているようなかんじ。
感性に触れるかどうか。
少しでも、感性に触れるものに出会うと、しあわせ。
感性に触れなくても、勉強になって蓄積されるから、しあわせ。
その時はなにも感じなくても、積み重なって、色んなものが、じわーっと混じって
熟成されていく感覚に、こころ満たされる。
少しずつ変化する自分を感じることも楽しい。
どっちにしても、しあせわなのだ。
で、いつものごとく、絵はがきは、2枚チョイス。
閉館時間ぎりぎりまで、目一杯ねばり、博物館を後にした。
三宮で途中下車して、コロー展を観た。
私は、いつも、ちょっとのことで出かけるのは、能率が悪いと感じる。
はやい話、面倒くさがりだ。
遠くまでわざわざ出かけるからには、ジャンルは、まるで無関係でも、
2件はハシゴしたい。
なので、強引に、コロー展。
地理的に、大阪より西に位置するところから、選んだ。
前に、「オルセー美術館展」を観に来て以来の、神戸市立博物館だ。
平日の閉館近くということもあり、他の人が邪魔にならなくてよかった。
カミーユ・コローは、1796年、パリのブルジョワ家庭に生まれた。
26才で、家業を離れて本格的に画家を目指すことが許されたコローは、
自然に対するみずみずしい目と感性で、 風景画家としての地位を築き、
人物画でも傑作を残した。
古典の伝統をふまえつつ、確かな造形力で独自の詩的世界を作り上げ、
彼の影響を受けた芸術家は、ルノワール、モネ、マチス・・・と後を絶たない。
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誰もが一度は見たことがある、学校の教科書にも載っているコローの絵。
絵画といえば、コローを知らない、と話にならないかなあ・・・と
後学のため、観にいったようなものだった。
時代の表舞台に光り輝く、超正統派、優等生中の優等生といったかんじ。
時代の先駆者となる構図、色使い、筆致、ストーリー性、当時の風景・・・
説明にあるままに、素直に、ふむふむ、なるほどなぁ、と歴史的大作の数々を
ひとつひとつ丁寧に観た。
確かに素晴らしいのは、言うまでもないが、なぜか、すんなり、行き過ぎてしまった。
前回観た、首の長い、アーモンド目の、やたら赤い顔、はっきり言って、へんな絵の
モディリアーニのほうが、ずっと後々、心のどこかにひっかかって印象的だった。
ひょっとして、私は、絵を見る目が、変化したのだろうか?
これも成長?
それとも、正統派に対する、コンプレックス?
モディリアーニのときは、音声ガイド器(有料)を借りなかったけれど、
今回は、奮発して(500円!!)借りたというのに。
中村吉右衛門が説明指南役だった。
行政も、予算がたっぷりなのか、
彼が、芸術理解者で、安めのギャラで引き受けたのか、
はたまたナレーション料は、相場として、そう驚くほど高くないのか?
ガイドが終わる頃になって、名前が流れ、意外だった。
渋いというか、思い入れたっぷりの年配の声だなあ、とは思っていたが、
無名のナレーターでも別によかったのでは、などと小市民的な私。
なんの先入観も、知識もない真っ白なままで、いろんな絵を観たい。
それは、絵に限らず、芸術全般、建物、人物、風景、街、・・・なんでもかんでも。
見るものだけでなく、五感で感じるすべてを。
自分の好みをリトマス試験紙でチェックしているようなかんじ。
感性に触れるかどうか。
少しでも、感性に触れるものに出会うと、しあわせ。
感性に触れなくても、勉強になって蓄積されるから、しあわせ。
その時はなにも感じなくても、積み重なって、色んなものが、じわーっと混じって
熟成されていく感覚に、こころ満たされる。
少しずつ変化する自分を感じることも楽しい。
どっちにしても、しあせわなのだ。
で、いつものごとく、絵はがきは、2枚チョイス。
閉館時間ぎりぎりまで、目一杯ねばり、博物館を後にした。