蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

トモダチ

2015-10-06 | 交友

トモダチについて。

わたしは、蝶ブログで何度も書いているが、トモダチはいない。
知り合いは、いる。
トモダチと知り合いの違いは、なんだろう?

トモダチのさらに上澄み上層部が、親友か。

親身になってくれるかどうか?
困った時に助け合えるかどうか?

あまり親しくないのに、親身になってくれるのは、少し気持ち悪い。
家族でもないのに、さして親しくないのに、ずかずか入ってこられるのも、嫌。

実際、困ったことが今まであまりなかったせいで、トモダチを作る機会を失っている。
困った時は、トモダチに頼むより、その道のプロや、業者に相談して頼む。
知り合いには、参考として事例を聞くことはある。

では、実生活には、立ち寄らない、心友は?
これは、あまり弊害がない。
実体もあってもなくても、あまり変わりが無い。
ただし、毒にも薬にもならない。
相手が身動きできない事情のある人で、どんなことがあっても、絶対に駆けつけて来れない人も、心友は心友だ。
心の支えにはなっても、実際の生活には役には立たない。
実益はない。

誰に頼るか?
というか、頼ろうという思いが、そもそも間違っている。
支え合うというのなら、わかる。
人に期待する分、自分も人様の役に立たなければいけないわけだ。

わたしは、人の人生にはかかわらない主義である。
かかわるのは、家族や肉親だけ。
これでも、けっこう自分としては大切にし、あらゆる意味で、占めるウエイトが高い。


同性のトモダチは、特にライバル心を持ちあうことが多い。
お互い同じようなレベルだとしても、人生には浮き沈みがある。
複雑、微妙な思いを抱えて交流するのは、好まない。
自分は家族をこよなく愛するくせに、交流のないトモダチたちの家族の話には、まったく興味がない。
どうでもよいのだ。
交流がないのだから、あたりまえか。
というより、交流がないのにトモダチって、定義自体がおかしい。

交流がなくなると、「トモダチ」は、「元トモダチ」で、たんなる「知り合い」に降格するのか?


決して近寄りたくない人に、相手から近寄ってこられると、魂胆が読めることがある。
鬱陶しい。


実社会、実生活は、そんな変人のようには見えず、わたしは普通に日常を送っている。

蝶ブログをお読みになった方は、ますます、こころが、わたしから遠ざかることだろう。
迎合内容を書いて、あたたかい交流を求めるか、
ホンネを書いて、孤独ながらも自分だけスッキリするか。

寂しいからトモダチが欲しいとか、
ヒマだから遊ぶ相手が欲しいとか、そんな気持ちは、さらさらない。

が、トモダチが欲しくないわけではなく、わたしのスタンスを貫いていると、結果的にいない、という現実があるだけで、
自分を確立している人となら、大歓迎である。
個と個の交流は、人生を豊かにする。
しかしながら、わたしは、自分の個を確立することばかりに熱中している。
そういうわたしも、じつのところ、よくよく考えると、トモダチはいるなあと、脳裏に数人の顔が浮かぶ。
(「トモダチはいない」、と冒頭に書いていたのに、書いているうちに雲行きが変わってきている)


そろそろ、自分を確立しつつあるようで、他人も受容できるようになってきたようだ。
お互い、それぞれに影響を受けあっている。
自分の中身も変わり一定でなく、相手の中身も変わり一定でなく、
何事も、動かず一定のままキープされるということはなく、世も自分も人も、無常である。

 

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