こんなことをしました、あんなことがありました。
こんなものを食べました、あんな店に行きました。
こんな所に行きました、素晴らしい時間でした。
写真と文章で綴る、豪華絢爛の日々。
ほんとうに、毎日、毎日、豪華が日常。
これは、とある人のブログである。
(べつの、とある人は、等身大、コンビニ・スイーツ研究だったりする)
ため息が出る。憧れる。
と、思っていたが。
何年も何年も続き、繰り返されると・・・。
この人は、よほどおカネが有り余っているのではないだろうか、
そうとう、ご主人は稼ぎが良いのだろう、と、今更ながら思った。
彼女自身は、専業主婦なので、無収入。
贅沢の限りを、自分で稼いだお金ではないおカネ、でも、自分で正当に得たおカネで、
自由に好きなように、湯水のごとく使っておられる。
といっても、年間、何十億円ものお金ではないが、
庶民感覚からすると、けっこう質の高い、いわゆる、「贅沢」と分類できる、
ハイレベルな消費に対する対価は、どかんとした支出である。
だんだん、嫌気がさしてきて、そのブログには行かなくなった。
「いいよね、あんなふうに出来て」なのだが、微妙に嫉妬とも少し違う、なにか。
彼女が、あまりにも、なにも考えていないことに対する、疑問を通り越した嫌悪感なのだろう。
庶民の目から見ると眩いばかりの豪華な毎日を、写真におさめ、アップする。
毎日、毎日。
ヒマとおカネと、行動力。
といっても、お友達とのランチや、家族との豪華食事、
一方的な参加型、楽しむだけのお稽古事(自分が人に教えたり、しないのか、できないのか)
豪華な旅行、豪華なイベント、品々・・・
それが、毎日続く。
これを毎日、ブログにアップする。
しかも何年も。
これは、逆に言うと、自分のブログも同じようなものかも知れない。
豪華なランチは、滅多にアップしていないが、人に与えるイメージは、ある意味、似ているかも知れない。
それは、自分が毎日、当たり前と思って無邪気に自然体で発信することと、
読み手が受ける感覚が、違うということである。
読み手は、毎日毎日そのブログを読み続けているうちに、なんからの感情なり、自分の考えが出てくることだろう。
それは、そのブロガーを否定する反対意見であっても、いっこうに、かまわない。
否定したあと、すっきりして、自分の道を構築して歩むとよい。
歩んで少し落ち着いて、そのあと、また、答え合わせのつもりで、ちょっと振り返って、
卒業したブログを再びたずねてみると、けっこう、味わい深いものを発見するかも知れない。
ブロガーは、読み手のことを考えてアップしてないケースも多々ある。
自分が書いてすっきりしたり、こころが落ち着いたりする場合だ。
豪華絢爛の毎日をアップする人も、
自宅で飼っているカブトムシの状態や変化を毎日、書き留める「カブトムシ観察日記」をアップするのと同じノリかも知れない。
毎日、毎日のブログの積み重ねで、自分はなにが言いたいか。
そんなものは、ないんじゃないだろうか。
ただただ、習慣のようにこなしている、ルーチンワークのようなブログのアップであるが、
そこに表されている日常は、各ブロガーさんは、まちまちであり、それぞれ大きく違う。
だから、なに?
贅沢三昧をとことん楽しんでいて、記事中、文字には「感謝している」と書かれているけれど、
本人にはさほど、自覚がないと感じられる。
あたりまえの日常となって本人の血肉の一部として、溶け込んでいる。
あ、ちなみに、わたしは、不幸ブログは読まない主義である。
と、ここで、突然、浮かんだ。
ブログを書く人は、人の目を意識しつつ、自分を確かめているのだろう。
研究熱心な向上心の現れているものもある。
あるいは、ヒマで退屈で、他に、これといって面白げな、やることがないから、と受け止められるようなものもある。
そのブログ内容に振り回されるのも自由、振り回されないもの自由。
ブログを読むことで、ブロガーさんの手助けをしても、手助けしがいがあるオモシロいブログと、
まんまと乗せられるだけの、くだらないブログがある。
書くのが自由である一方で、読むのも自由である。
内容は、読み手の感性で、どうにでも受け取られる。
いろんなものを読んでいるうちに、自分の指針や方向性のようなものが、だんだん見えてくる。
人は人で、自分ではないってことだ。
自分をしっかり持っていないと、船酔いする。