自分のブログに関するアクセス解析を見ると、閲覧元URLが表示される。
どのキーワードから飛んできたか、よくわかって面白い。
その中で、昨日は、「家政学部 嫁」というキーワードがあった。
自分の記事が、検索で引っかかって、蝶ブログに飛んできたようだ。
3年ぐらい前の古い記事。
で、その、自分の記事を改めて読んでみた。
まあ、好きなことを書いている。
自分のことを棚にあげて、よくまあ、しゃあしゃあと。
上から目線の権化である。(自覚してますが)
こうだったらいいな→できもしない理想。
これはあかんわ→理想どおりにいかないのは、わかりきっていることなのに。
こういうことを、評論家ではなく、批評家のごとく、書き連ねている。
こんなことを書いている人は、いったい、どれだけ自分が出来るんだ???
世の中の「一生懸命、頑張っても上手くいっていない人」
「頑張って上手くいっているつもりの人」をオモシロいほど、コケにしている。
たぶん、要領の悪い、評価の低い自分へのエールなんだろう。自虐ベース。
(後に、この要領の悪さは、いつの間にか、べつのものに転じていた)
自分ではわかっていて、書いているのだが、読む人にとっては、グサグサ突き刺さるだろう。
わたしは、今読むと、この無責任な痛さが、気持ちいい。
しかし、こういう人が身近にいると、嫌だろうなあと思う。
自分だから仕方ないが。
人間やモノゴトには両面あって、表裏一体である・・・
なので、自分にも、天使と悪魔を内包している、と言いたいところだが、
大悪魔、中悪魔、小悪魔、みたいなかんじで、悪の濃度が、その日によって違うだけのように感じる。
ホンネを書けば書くほど、自分のホンネの毒に、やられてしまう。
が、誰も口に出して言わないことを書いているので、読んでいて爽快である。
表面を美しく取り繕っている人々の、裏を暴いている。
が、それって、同時に自分も斬ってしまっている。
爽快ではあるが、血だらけで、もはや老体には治癒能力が鈍化し、痛みが残るばかり。
美しいものは、なにも言わないで、そっとしておくのが、美しくてよい。
ただただ美しいだけ、なんてありえないが、あえて、目をつぶる。
ほじくり出しても、嫌な気がするだけで、誰もなにも得(とく)もしなけれは、喜びもしない。
美しい部分だけを見る。
努力して美しく整えたことを評価する。
努力部分に、多少のよろしくないことや、容認しがたい点があっても、見なかったことにして無いものとする。
それでいいように、思う。
それが大人の常識、グローバル・スタンダードなのかしらん。