桜が満開。
葉が混じることなく、完全に咲き誇る桜。
日本人は桜の散り際に美意識をかきたてられるそうだが、桜吹雪の舞台装置じゃあるまいし、散らない桜が美しい。
孫の学童教室にお迎えに行った。
その緑道の両サイドは、豪華な桜。
今日は入学式だが、「桜咲いたら一年生〜」とは、よく出来た歌だ。
小学校への道の途中にある団地では、人の気配がした。
時折、ベランダから外の空気に触れようとしているのか、はたまた、なんらかの用事か。
お花見に出かけなくても、こんなに素晴らしい桜が、目の前いっぱいに咲き誇っている。
春の陽気にはまだ少し冷たい風が吹くが、春の訪れを感じずにはいられない。
帰りに、救急車のサイレンが鳴り、老人施設から担架で運ばれる人がいた。
おそらく、病院と施設を行ったり来たりなのだろう。
緊迫した様子はまるでなく、日常、平素の一部のように、搬送されていた。
桜→小学校→老人施設→救急車搬送
人の一生も、こんな感じで、淡々と時が過ぎて行くのだろう。
貴重な春うららの1日をだらだらと何もせずに過ごした。
なんと贅沢なことだろう。
少しだけの日課をこなす。
もっとたくさん出来るんだけど、そして、目の前に迫る、来週のエアコン工事のための、片付け、整理、掃除をしなければならないのに、やる気がしない。
前倒しに少しずつ進めれば、直前にバタバタしなくて済むのはわかりきっているのに。
私はやるべきこともしない。
やる気がないわけだが、しゃかりきになって、スーパーボランティアでもする?
途中で自分が怪我でもして、かえって足手まといになりそうだ。
用事を取り上げられた老人が、生き甲斐を失い、行き場を失うことがある。
きょうよう(今日の用事)、きょういく(今日、行くところ)がないと、リタイア後の人生はダメになるらしい。
わたしは、きょうよう、きょういく、を少しでも先に伸ばし、そんな毎日ちょろちょろ少しずつせずに、出来れば一度に片付けたい。
用事を溜め込む間は、だらだら。何もしない。
ほんとうに最近は、エネルギーをチャージしないと動けなくなった。
病気かしらん。
最悪、当日の朝からかかれば、どうにかなる、と踏んでいる、大胆な読み。
どうせ業者は他人だ。
部屋が散らかっていようが、汚かろうが、姑でも嫁でも近所小姑でもない。
自分が恥ずかしい思いをするだけだ。(それも実は避けたい)
スケジュール表に予定が書き込まれていると、げんなりする。
気になって、気になって、早く終わらないかと思う。
どうなってるんだろう。
活火山はすっかり死火山になった。
ちなみに、クリント・イーストウッド(88歳)の映画「運び屋」を観た。
気持ちいい、気概のある老人だった。
先はあまりないから、大金が入っても貯金などせず、ぱーっと使う。
使い道が実に今の生活に則していて、面白い。
ボロボロの車をバリッとした新車に買い替えたり、金のずっしりしたブレスレットをしたり、退役老人が集う店が経営ピンチに陥ると、援助資金を出して難を救ったり、周りにいる人に飲食費を奢ったり、、、
わたしなら、あんなに気前よく、出来そうもない。やはり、性格がある。
クリント・イーストウッド扮する老人のように、自分がしたいことに使えるか。
わたしはケチだから、きっと使えないで、陽の目を見ず、国庫没収の憂き目に遭うかも知れない。
それなら、ごっそり子供達にあげたいが、嫌がられることはないにしても、たいして喜んではもらえないだろう。 (たいした額でもない)
「生きているうちに、生き金として使えなかった人だったよね」と冷たく言い放たれるんだろう。
大切にしていることが、後になってわかっても時遅し。
その場その場で、きっちり対応していきたいところだが、これだけ、怠け者だと、全てを後回しにして、対応しきれないで後悔することになるんだろう。
後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。
転ばぬ先の杖。
備えあれな憂いなし。
しかし、何にもしないのに、準備ばかりに追われるのって、どうなんですかねー?
せめて、サボってるなら、準備だけはしておかないとダメということか。
健康オタクみたいなものか。
健康を気にするあまり、健康なのにストレスを抱え込む。
主客転倒だ。
が、そういう小さな繊細な神経を持っている人がいて、笑えない、冗談にはならない。
ああ、それにしても、今日のブログは、ノリが悪い。
暇つぶし、死火山だ。
せっかくの桜爛漫から始まったというのに。
まあ、そういう日もある。
葉が混じることなく、完全に咲き誇る桜。
日本人は桜の散り際に美意識をかきたてられるそうだが、桜吹雪の舞台装置じゃあるまいし、散らない桜が美しい。
孫の学童教室にお迎えに行った。
その緑道の両サイドは、豪華な桜。
今日は入学式だが、「桜咲いたら一年生〜」とは、よく出来た歌だ。
小学校への道の途中にある団地では、人の気配がした。
時折、ベランダから外の空気に触れようとしているのか、はたまた、なんらかの用事か。
お花見に出かけなくても、こんなに素晴らしい桜が、目の前いっぱいに咲き誇っている。
春の陽気にはまだ少し冷たい風が吹くが、春の訪れを感じずにはいられない。
帰りに、救急車のサイレンが鳴り、老人施設から担架で運ばれる人がいた。
おそらく、病院と施設を行ったり来たりなのだろう。
緊迫した様子はまるでなく、日常、平素の一部のように、搬送されていた。
桜→小学校→老人施設→救急車搬送
人の一生も、こんな感じで、淡々と時が過ぎて行くのだろう。
貴重な春うららの1日をだらだらと何もせずに過ごした。
なんと贅沢なことだろう。
少しだけの日課をこなす。
もっとたくさん出来るんだけど、そして、目の前に迫る、来週のエアコン工事のための、片付け、整理、掃除をしなければならないのに、やる気がしない。
前倒しに少しずつ進めれば、直前にバタバタしなくて済むのはわかりきっているのに。
私はやるべきこともしない。
やる気がないわけだが、しゃかりきになって、スーパーボランティアでもする?
途中で自分が怪我でもして、かえって足手まといになりそうだ。
用事を取り上げられた老人が、生き甲斐を失い、行き場を失うことがある。
きょうよう(今日の用事)、きょういく(今日、行くところ)がないと、リタイア後の人生はダメになるらしい。
わたしは、きょうよう、きょういく、を少しでも先に伸ばし、そんな毎日ちょろちょろ少しずつせずに、出来れば一度に片付けたい。
用事を溜め込む間は、だらだら。何もしない。
ほんとうに最近は、エネルギーをチャージしないと動けなくなった。
病気かしらん。
最悪、当日の朝からかかれば、どうにかなる、と踏んでいる、大胆な読み。
どうせ業者は他人だ。
部屋が散らかっていようが、汚かろうが、姑でも嫁でも近所小姑でもない。
自分が恥ずかしい思いをするだけだ。(それも実は避けたい)
スケジュール表に予定が書き込まれていると、げんなりする。
気になって、気になって、早く終わらないかと思う。
どうなってるんだろう。
活火山はすっかり死火山になった。
ちなみに、クリント・イーストウッド(88歳)の映画「運び屋」を観た。
気持ちいい、気概のある老人だった。
先はあまりないから、大金が入っても貯金などせず、ぱーっと使う。
使い道が実に今の生活に則していて、面白い。
ボロボロの車をバリッとした新車に買い替えたり、金のずっしりしたブレスレットをしたり、退役老人が集う店が経営ピンチに陥ると、援助資金を出して難を救ったり、周りにいる人に飲食費を奢ったり、、、
わたしなら、あんなに気前よく、出来そうもない。やはり、性格がある。
クリント・イーストウッド扮する老人のように、自分がしたいことに使えるか。
わたしはケチだから、きっと使えないで、陽の目を見ず、国庫没収の憂き目に遭うかも知れない。
それなら、ごっそり子供達にあげたいが、嫌がられることはないにしても、たいして喜んではもらえないだろう。 (たいした額でもない)
「生きているうちに、生き金として使えなかった人だったよね」と冷たく言い放たれるんだろう。
大切にしていることが、後になってわかっても時遅し。
その場その場で、きっちり対応していきたいところだが、これだけ、怠け者だと、全てを後回しにして、対応しきれないで後悔することになるんだろう。
後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。
転ばぬ先の杖。
備えあれな憂いなし。
しかし、何にもしないのに、準備ばかりに追われるのって、どうなんですかねー?
せめて、サボってるなら、準備だけはしておかないとダメということか。
健康オタクみたいなものか。
健康を気にするあまり、健康なのにストレスを抱え込む。
主客転倒だ。
が、そういう小さな繊細な神経を持っている人がいて、笑えない、冗談にはならない。
ああ、それにしても、今日のブログは、ノリが悪い。
暇つぶし、死火山だ。
せっかくの桜爛漫から始まったというのに。
まあ、そういう日もある。