最近の美容整形は、すごい。
韓国美人は皆んな同じ顔に見える。
特にモデル。
リカちゃん人形みたいなかんじか。
本体は統一、同じ企画で量産されたもの。
何年モノ、○○年産は、出来が良い、だとか、レアだとか、ワインみたいに、評価されたりして。
テレビで、整形の自撮りビフォーアフターをしている女性が紹介されていた。
日本人で、韓国で整形した女性たち。
「整形は後ろめたいものではないので、明るく日の当たる場所で整形を認めらたらよい」という、ご本人の希望で。
インターネットでも、凄まじいビフォーアフターが紹介されている。
美人がさらに美人になるのは、通常よくあることだが、不美人が美人になるのは、スゴイ。
見てくれを良くするパッケージや包装紙で人は騙される。
でも、外見や容姿で人を判断する人が後をたたないから、外側の美こそ全てだ、と信じて疑わない人間が多くいてもしかたないかも知れない。
(抗えない老化と向き合う年齢にならないと、わからないことは、たくさんある)
自分の外見、顔を美しく理想に近づけることで、自分のモチベーションをアップさせ、価値を上げるのは、本人の自由だ。
美しくなった顔を見て、美人だと評価する外野、他人も、自由だ。
騙されてもよいと思う。
仮に初めから美人であろうが、後から美人になろうが、あくまで、「見かけ部門」である。
美人だから、優良会社に就職できたとしたら、仮に整形していたとしても、それはその美人の手柄だろう。
美人枠で就職しなくても、別枠で就職する手もあるが。
これは、異性を魅了するのも同じ。
美しさに吸い寄せられ虜になるのは、鳥などはそうだ。(ただし、メスを引き寄せるために美しいのはオス)
美しさだけではなく、立髪だったり、叫び声だったり、大きな身体だったり、メスを惹きつけるための、オスはメスをゲットするために、自分がオスである売りを最大限、強調する。
そうしないと、子孫を残せない。
しかしながら、人間は、子孫を残す気がないなら残さなくてもいい選択の自由を認められている。
同性婚だと、生物の教科書を参考にすると体の生殖メカニズムから子供は生まれない。
もし子供が欲しいなら養子をもらうか、パートナーではない、同性ではない異性の精子か卵子を受精卵の二分の一、提供してもらうしかない。
子供は要らないとしても、オス同士、メス同士、パートナーを得るための競争が生じる。
それは、美しさや、顔、容姿も入るのだろうか?
仮にわたしが女性をパートナーに選ぶとすると、美人や整形美人を選ぶかなあ?
女性的な魅力を女性に発するには、どうすればいいのだろう?
自分は女性らしい、胸がすごく大きいとすると、相手の女性には胸は小さい人のほうがいいのだろうか?
まあ、わたしは、あまり同性に対する性的好奇心が無いため、深く知りたいとは思わず、興味がないが。
異性も同性も容姿、美醜は、本人にも他者にも、大きな影響があるようだ。
わたしは、整形であろうがなかろうが、美しい人は美しいと思うが、メンテナンスがたいへんだろうと感じる。
自分の美に固執するあまり、アリ地獄に陥るかのように、満足出来ずに不幸せにならないことを祈る。
自分の見かけの美もさることながら、能力や、感性にも固執して、自滅する場合もある。
エネルギー源になるなら良いが、制御能力を失って、心を病んでは意味がない。
外見に限らず、他人に良く思われたいのは、人間の承認欲求だが、欲求に呑まれては元も子もない。
わたしは、あまり承認欲求がない部類なので、なんであんなに必死に自分を追い込んでまで追求するのかわからない。
(仕事などの場合は別)
自分に向けて追求するならわかるが。
人に対して認めて欲しいという強い欲求を否定はしないが、あまり理解できない。
(仕事などの場合は別)
自分を切磋琢磨した結果、人に認められるのは理想だ。
人に認められたいために、頑張るのは、わたしとしては、順序が逆である。
(期限や予算が決められ、結果を出さなければならない仕事などの場合は別)
自分がどうしたいか、であって、人にどう思われたいか、ではない。
美しい自分になりたい、人に美人だと思われたいからではない、それも結構。
たんに外見だけの話であり、その外見に固執する価値観には、賛同できないが。
やりたいことをする、ということは自由だと思う。
必死でやっている内容や結果においては、さほど、わたしは価値を置かない。
よかったね、したいことができて、というかんじ。
外見はどうでも良いといっても、社会生活を送るにあたり、あまり奇抜すぎるのも生きにくい。
それぞれの自分がやりたいこと、なりたい自分に向かって頑張っていただきたい。
ただし、表面に現れる結果に対しては、賛同する分野と、価値を置かない分野がある。
わたしは、外見にはあまり価値をおかない。
長々と書いてきて、結局、見かけ否定だった。
が、全く否定しているわけではなく、そこまで価値を置かない、と言っているだけ。
芸術に高まるほどの美は、大いに崇めたてるし、町内での美人さんも素晴らしいし、せっかくの生まれもったる美は、大切にしていただきたい。
ただし、容姿、美だけに囚われるのは、いただけない。
中身が大事である。
美人は三日で飽きる、とは、よく言ったものだ。
美容整形は、自分の部屋を好きなインテリアに模様替えするようなものだろうか。
気に入った住環境を確保し、一歩一歩、次のやりたいことを実現していくのだろうか。
仕事などに追われると、なかなかそんな余裕はない。
旅行したり、リフレッシュする。
顔いじり(美容整形)も、趣味みたいなものなんだろう、きっと。
社会に顔を広く出して活躍する人は、趣味と実益を兼ねていることだろう。
韓国美人は皆んな同じ顔に見える。
特にモデル。
リカちゃん人形みたいなかんじか。
本体は統一、同じ企画で量産されたもの。
何年モノ、○○年産は、出来が良い、だとか、レアだとか、ワインみたいに、評価されたりして。
テレビで、整形の自撮りビフォーアフターをしている女性が紹介されていた。
日本人で、韓国で整形した女性たち。
「整形は後ろめたいものではないので、明るく日の当たる場所で整形を認めらたらよい」という、ご本人の希望で。
インターネットでも、凄まじいビフォーアフターが紹介されている。
美人がさらに美人になるのは、通常よくあることだが、不美人が美人になるのは、スゴイ。
見てくれを良くするパッケージや包装紙で人は騙される。
でも、外見や容姿で人を判断する人が後をたたないから、外側の美こそ全てだ、と信じて疑わない人間が多くいてもしかたないかも知れない。
(抗えない老化と向き合う年齢にならないと、わからないことは、たくさんある)
自分の外見、顔を美しく理想に近づけることで、自分のモチベーションをアップさせ、価値を上げるのは、本人の自由だ。
美しくなった顔を見て、美人だと評価する外野、他人も、自由だ。
騙されてもよいと思う。
仮に初めから美人であろうが、後から美人になろうが、あくまで、「見かけ部門」である。
美人だから、優良会社に就職できたとしたら、仮に整形していたとしても、それはその美人の手柄だろう。
美人枠で就職しなくても、別枠で就職する手もあるが。
これは、異性を魅了するのも同じ。
美しさに吸い寄せられ虜になるのは、鳥などはそうだ。(ただし、メスを引き寄せるために美しいのはオス)
美しさだけではなく、立髪だったり、叫び声だったり、大きな身体だったり、メスを惹きつけるための、オスはメスをゲットするために、自分がオスである売りを最大限、強調する。
そうしないと、子孫を残せない。
しかしながら、人間は、子孫を残す気がないなら残さなくてもいい選択の自由を認められている。
同性婚だと、生物の教科書を参考にすると体の生殖メカニズムから子供は生まれない。
もし子供が欲しいなら養子をもらうか、パートナーではない、同性ではない異性の精子か卵子を受精卵の二分の一、提供してもらうしかない。
子供は要らないとしても、オス同士、メス同士、パートナーを得るための競争が生じる。
それは、美しさや、顔、容姿も入るのだろうか?
仮にわたしが女性をパートナーに選ぶとすると、美人や整形美人を選ぶかなあ?
女性的な魅力を女性に発するには、どうすればいいのだろう?
自分は女性らしい、胸がすごく大きいとすると、相手の女性には胸は小さい人のほうがいいのだろうか?
まあ、わたしは、あまり同性に対する性的好奇心が無いため、深く知りたいとは思わず、興味がないが。
異性も同性も容姿、美醜は、本人にも他者にも、大きな影響があるようだ。
わたしは、整形であろうがなかろうが、美しい人は美しいと思うが、メンテナンスがたいへんだろうと感じる。
自分の美に固執するあまり、アリ地獄に陥るかのように、満足出来ずに不幸せにならないことを祈る。
自分の見かけの美もさることながら、能力や、感性にも固執して、自滅する場合もある。
エネルギー源になるなら良いが、制御能力を失って、心を病んでは意味がない。
外見に限らず、他人に良く思われたいのは、人間の承認欲求だが、欲求に呑まれては元も子もない。
わたしは、あまり承認欲求がない部類なので、なんであんなに必死に自分を追い込んでまで追求するのかわからない。
(仕事などの場合は別)
自分に向けて追求するならわかるが。
人に対して認めて欲しいという強い欲求を否定はしないが、あまり理解できない。
(仕事などの場合は別)
自分を切磋琢磨した結果、人に認められるのは理想だ。
人に認められたいために、頑張るのは、わたしとしては、順序が逆である。
(期限や予算が決められ、結果を出さなければならない仕事などの場合は別)
自分がどうしたいか、であって、人にどう思われたいか、ではない。
美しい自分になりたい、人に美人だと思われたいからではない、それも結構。
たんに外見だけの話であり、その外見に固執する価値観には、賛同できないが。
やりたいことをする、ということは自由だと思う。
必死でやっている内容や結果においては、さほど、わたしは価値を置かない。
よかったね、したいことができて、というかんじ。
外見はどうでも良いといっても、社会生活を送るにあたり、あまり奇抜すぎるのも生きにくい。
それぞれの自分がやりたいこと、なりたい自分に向かって頑張っていただきたい。
ただし、表面に現れる結果に対しては、賛同する分野と、価値を置かない分野がある。
わたしは、外見にはあまり価値をおかない。
長々と書いてきて、結局、見かけ否定だった。
が、全く否定しているわけではなく、そこまで価値を置かない、と言っているだけ。
芸術に高まるほどの美は、大いに崇めたてるし、町内での美人さんも素晴らしいし、せっかくの生まれもったる美は、大切にしていただきたい。
ただし、容姿、美だけに囚われるのは、いただけない。
中身が大事である。
美人は三日で飽きる、とは、よく言ったものだ。
美容整形は、自分の部屋を好きなインテリアに模様替えするようなものだろうか。
気に入った住環境を確保し、一歩一歩、次のやりたいことを実現していくのだろうか。
仕事などに追われると、なかなかそんな余裕はない。
旅行したり、リフレッシュする。
顔いじり(美容整形)も、趣味みたいなものなんだろう、きっと。
社会に顔を広く出して活躍する人は、趣味と実益を兼ねていることだろう。