昨夜のテレビ番組、興味深いものを観た。
1つは断捨離を通して見る人生カウンセリング。
もう1つは、ポツンと一軒家。
さらに、もう1つは、東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞。
さらに、オマケの付録としては、若いイケメン社会学者のホンネトーク。
わあ、こんなにイッパイ!
夫が超絶、珍しく、お風呂→寝室という黄金コースを辿り(普通の家庭ではこれが普通なんだろうけれど)、早めに寝たため、わたしは、100%のチャンネル権を得た。
21時からのNHKスペシャルは、夫がテレビを観るリビングダイニング(可動式スライド扉一枚隔てられている)に隣接する部屋(大リビング)で観た。
22時までには夫は、寝室に移動したため、わたしも、それまで夫が見ていたリビングダイニングで引き続きテレビを観た。
(こんな長い説明、なんか意味ある?)
さて前置きは必要ないとしても、とりあえず、、、、、長々、導入部。
断捨離カウンセリングは、良いと思った。
モノと対峙することによって、自分の人生と向き合う。
しかし、教祖的な断捨離主宰者が、とても若い女性なので、歳をくっているわたしは、わたしの人生の半分しか生きていない人に、人生のナビゲートはしていらない、という気には、なったが。
生きてきた長さではない、質、濃さだ、としても、あの断捨離主宰者が、若いが例えば戦争経験者であるとか、重い病いを患っているとか、ハンディのある人だとか、特異な経歴の持ち主であるならいざ知らず、だ。
だが、わたしが納得するような説得力のある生き様であるなら、耳を傾けると思う。
しかし、どんな生き様であろうが、提唱している内容が共鳴できるものなら、別に誰が提唱しようが、関係ない。
提唱プロセス、内容は、非常に賛同できるが、導き出されようとする結果が、わたしの考えとは真逆である。
提唱者は、カウンセリング的な役をするだけであり、向き合い、考え、決めるのは本人だ。
わたしなら、家に溢れるモノを引っ張り出して1つ1つ、必要?不必要?と検証していくうちに、体力、気力ともにダウンし、どうでもよくなりそうだ。
人生対峙の途中放棄。
そこで止めるなら止めたらよいが、保留中のモノ、どうする?
捨てる?捨てない?
たぶん、捨てないでとりあえず、休憩となり、塩漬け、そのまま。
それが嫌なら、捨てたらよいのだが、捨てたくて捨てるのではない、ギブアップで煮詰まって判断能力を失っただけなら、捨てると悔いが残りそうだ。
わたしの人生の対峙は、体力、気力がないくせに、へんに底力があり、がんと動かない。
人に決めてもらうのではなく、自分で決めるわけだから、結局、全て捨てないことを選んだ場合、どうなるのか?
カウンセラーは、徒労に終わることになるのか。
時間と労力を割いての断捨離カウンセリングは有料だろうから、それはそれで、お互い納得出来るのではないだろうか。
人の力を借りなければ出来ないというのは、よほどのことである。
麻薬中毒やアルコール中毒など、重度の依存症で自分の意思ではどうしようもないケースだ。
あるいは、病気や身体が動かないために、人に動いてもらって片付けたり捨てたりする。
しかし、指図するのは、自分だ。
結局、究極は自分なわけである。
断捨離も自分と向かうための手段に過ぎない。
自分の人生なのに、自分の歳の半分の人からアドバイスを受けても、、、
そのモノにトキメクか、トキメカナイか。
それは本人の考え、感性に委ねるしかない。
が、認知症で考えや感性に問題がある場合は?
自己責任の範疇を超えている場合は、自分ではない他者に従うしかないのか。
しかし、認知症かどうか、分野的にまだらな場合は?
認知症だからと無理やり、こだわりの品を処分してよいのか?
その時期になれば、周りは本人にわからないように処分していけばよい。
本人にとって、知らないことは、なかったことと同じ。
へんに、神経に障るようなことはしないほうがよい。
ということで、断捨離は自分でします。
ほっといて、ちょーだい。
自分が向き合うべき、問題が詰まったまま、解決を先延ばしにしている人生ではないので。
自分と向き合っても、自己肯定しかない。
じゃあ、公共の場にモノを積んで皆さんに迷惑かけているわけでもないのだから、断捨離しません。
1つ目の番組感想だけで、こんなに書いてしまった。
しかも、眠くなってきている。
わたしの人生対峙は、眠気との闘いかな?
なんて、お気楽なんでしょう。
眠気が襲うというのは、脳がもう受け付けないということだ。
いたって容量の小さな脳に、わたしは救われていると多分思う。
1つは断捨離を通して見る人生カウンセリング。
もう1つは、ポツンと一軒家。
さらに、もう1つは、東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞。
さらに、オマケの付録としては、若いイケメン社会学者のホンネトーク。
わあ、こんなにイッパイ!
夫が超絶、珍しく、お風呂→寝室という黄金コースを辿り(普通の家庭ではこれが普通なんだろうけれど)、早めに寝たため、わたしは、100%のチャンネル権を得た。
21時からのNHKスペシャルは、夫がテレビを観るリビングダイニング(可動式スライド扉一枚隔てられている)に隣接する部屋(大リビング)で観た。
22時までには夫は、寝室に移動したため、わたしも、それまで夫が見ていたリビングダイニングで引き続きテレビを観た。
(こんな長い説明、なんか意味ある?)
さて前置きは必要ないとしても、とりあえず、、、、、長々、導入部。
断捨離カウンセリングは、良いと思った。
モノと対峙することによって、自分の人生と向き合う。
しかし、教祖的な断捨離主宰者が、とても若い女性なので、歳をくっているわたしは、わたしの人生の半分しか生きていない人に、人生のナビゲートはしていらない、という気には、なったが。
生きてきた長さではない、質、濃さだ、としても、あの断捨離主宰者が、若いが例えば戦争経験者であるとか、重い病いを患っているとか、ハンディのある人だとか、特異な経歴の持ち主であるならいざ知らず、だ。
だが、わたしが納得するような説得力のある生き様であるなら、耳を傾けると思う。
しかし、どんな生き様であろうが、提唱している内容が共鳴できるものなら、別に誰が提唱しようが、関係ない。
提唱プロセス、内容は、非常に賛同できるが、導き出されようとする結果が、わたしの考えとは真逆である。
提唱者は、カウンセリング的な役をするだけであり、向き合い、考え、決めるのは本人だ。
わたしなら、家に溢れるモノを引っ張り出して1つ1つ、必要?不必要?と検証していくうちに、体力、気力ともにダウンし、どうでもよくなりそうだ。
人生対峙の途中放棄。
そこで止めるなら止めたらよいが、保留中のモノ、どうする?
捨てる?捨てない?
たぶん、捨てないでとりあえず、休憩となり、塩漬け、そのまま。
それが嫌なら、捨てたらよいのだが、捨てたくて捨てるのではない、ギブアップで煮詰まって判断能力を失っただけなら、捨てると悔いが残りそうだ。
わたしの人生の対峙は、体力、気力がないくせに、へんに底力があり、がんと動かない。
人に決めてもらうのではなく、自分で決めるわけだから、結局、全て捨てないことを選んだ場合、どうなるのか?
カウンセラーは、徒労に終わることになるのか。
時間と労力を割いての断捨離カウンセリングは有料だろうから、それはそれで、お互い納得出来るのではないだろうか。
人の力を借りなければ出来ないというのは、よほどのことである。
麻薬中毒やアルコール中毒など、重度の依存症で自分の意思ではどうしようもないケースだ。
あるいは、病気や身体が動かないために、人に動いてもらって片付けたり捨てたりする。
しかし、指図するのは、自分だ。
結局、究極は自分なわけである。
断捨離も自分と向かうための手段に過ぎない。
自分の人生なのに、自分の歳の半分の人からアドバイスを受けても、、、
そのモノにトキメクか、トキメカナイか。
それは本人の考え、感性に委ねるしかない。
が、認知症で考えや感性に問題がある場合は?
自己責任の範疇を超えている場合は、自分ではない他者に従うしかないのか。
しかし、認知症かどうか、分野的にまだらな場合は?
認知症だからと無理やり、こだわりの品を処分してよいのか?
その時期になれば、周りは本人にわからないように処分していけばよい。
本人にとって、知らないことは、なかったことと同じ。
へんに、神経に障るようなことはしないほうがよい。
ということで、断捨離は自分でします。
ほっといて、ちょーだい。
自分が向き合うべき、問題が詰まったまま、解決を先延ばしにしている人生ではないので。
自分と向き合っても、自己肯定しかない。
じゃあ、公共の場にモノを積んで皆さんに迷惑かけているわけでもないのだから、断捨離しません。
1つ目の番組感想だけで、こんなに書いてしまった。
しかも、眠くなってきている。
わたしの人生対峙は、眠気との闘いかな?
なんて、お気楽なんでしょう。
眠気が襲うというのは、脳がもう受け付けないということだ。
いたって容量の小さな脳に、わたしは救われていると多分思う。