お彼岸。
疲れた。
早朝から一日中、夫の実家。
朝一にお坊さんがやって来た。
予想より30分は早い訪れに、まだお供えやお布施を金封に入れてなかったので焦る。
お経をあげてもらっている間に、お茶とオシボリと同時に、お布施&お供えの用意をパパパバババとハイスピードでする。
早くしないと、お経が終わってしまう。
宗教タイムはいつもバタバタ。
早々とお坊さんが来たおかげで、朝一に自分の用事は終わってしまった。
本来なら、祝休日は趣味の会にそそくさと出かけている。
行こうと思えば行けたが、前日に、今日の行動、どうしようか散々迷ったものの、行かないことにした。
しかし、こんなに早く用事が済んでしまったのでは、余裕で行けたではないか。
だが、はやる気持ち、がっかり、残念な気持ちは、かつてほどない。
今は、多少、落ち着いてきたように思う。
自分には、ゆっくり流れる自分時間を楽しむ余裕が出てきた。
仏事に追われて、ただただ義務をこなすだけだったが、やっと終わって一息ついている。
次の法事は来年の9月。
ちょっと一休み。
その間、春の彼岸、お盆も、お坊さんが来るが、大きな行事はとりあえず来年までお休み。
やれやれだ。
仏間と壁一枚で隣接した、ピッカピカのリフォームしたての空間に身を置く。
時間が経つにつれ、日射角度は推移し、お日様の当たり具合を眺め、部屋に差し込む陽光を愉しむ。
あっちに座ったり、こっちに座ったり。
あちこち座ってみる。
玄関以外に、絵画はあれから3枚加えた。
1番大きな絵を掛けるために、天井補強のための追加工事を必要としたが、ノリと勢いで追加した。
その大きな絵は、父が好きでわたしの実家の玄関に掛けてあったもの。
実家の玄関には3枚掛けてあった。
その中の1枚。
それをしみじみ見ると、父がオーバーラップする。
これという父の姿、容貌、行動が瞼に浮かび上がるわけではないが、抽象的に父の存在が私を包む。
草原を力強く疾走する馬の絵であるが、いかにも父が精一杯、駆け抜けているような息遣いを感じる。
わたしは、父から無形の何かしら得たものがある。
有形である絵画を通して、父が生きてきた軌跡を無意識に自分の中にかたちを変えて取り入れられているように思う。
父は、こんなかたちで自分が買い求め飾っていた絵を、半世紀近くも経ち、娘のわたしに眺められようとは思いもしなかっただろう。
絵は不思議なものである。
初秋の一日をゆっくり父と語ったような気がした。