蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

目を見張る成長、かたや、、、

2023-12-05 | 老い
次女母娘が、冬物衣料(前回の忘れ物)を取りに来た。
今回は日帰り。
2歳になった孫は、来るなり、玄関前の土スペース(前庭とは言い難い)に、しゃがみ込み、地面に一つだけ成っていた小さな赤い実を指さし、「これ、かわいいね」と言った。
まあなんと!
このAI(=孫)、確実に進歩している。
どんどん言葉を覚え、単語だけでなく、フルセンテンスで臨機応変に喋る。
学習、習得スピードは、実に速い。
たった2年で。女の子は口が早いと言われるが、実際、身近な実例を3つ見ていると、そう思う。
男女の違いによる特徴の違いがはっきり出る。
1番上の男孫は、初めて言ったのは「デンチャー(電車)」「パン!」だった。
単なる単語。
しかし、「三つ子の魂百まで」で、彼は食いしん坊の電車オタクになっている。
同じ幼児でも、着眼点が違う。
間違っても小さなお花を見つけ出して、「これ、かわいいね」などとは絶対に言わない。
じいちゃん(夫)も、そう。
目に入らない。
人それぞれ、感性は違うものである。

意外にその感性の違いから、接点がない故に、摩擦を生み出さなかったのかも知れない。
生活において、感性を持ち出すと、とても誰かと同居できない。
例え愛する娘や孫とでも、わたしは同居は苦しい。
感性の違いによる快適、不快が、微妙に違う。
夫で十分過ぎるほど経験しているので、人に合わせて自分の「快適」を曲げ、「不快」に合わせるのは疲れる。
自分の快適は、相手の不快、、、この調整が難しい。
なぜなら感覚というものはお互いが正解なので、自分の主張を譲らないとすると、力が強い方に引っ張られ、合わせることになる。
性格が弱いほうは、いつも相手に合わせて疲弊する。

そんなことを考えながら、、、
同居はありえないなあと思った。
自分への介護が必要になったらヘルパーさんの力を借りながら、もう自宅では無理という時期を見極めるまでは移行期間を過ごし、その後は老人施設に入りたいと考える。

「若い人には、年寄りの哀しみが絶対にわからない」と、かつて姑が逆ギレするかのように怒りをぶつけて言っていた。
若い人にはわからないのは、よくわかる。
かつてわたしがそうだったから。
歳を取ってわかることがある。
幼児の1日1日の成長に喜ぶのと同じく、老いゆく者は歳を取って行くことを哀しみ怒る。
順送りだ。
ではあるが、喜ばしいことだけをきゃあきゃあ楽しんだら良いのでは?
哀しい方は、静かにじっとしていたら良いのでは?
観念するというか、諦観の心境。
とは言え、やはり、子供たちの成長にはエネルギーをもらう。
わたしの衰えるエネルギーの充足になるかも知れない。
他から得るのではなく、自家発電エネルギーを作り出せるように頑張りたいところだが、新しくは無理そうなので、今まで蓄えきたエネルギーを省エネでエネルギーが底をつく日を遅らせている。

そう考えるのは、今のわたしの年齢、状態だからだろう。
20年後はまた違うことを思っていると想像する。

と、書きつつ、ふと思った。
自分が誰かに介護されるシュミレーションは想定しても、夫を介護するシュミレーションが入っていない。
自分のことだけを考えているわたし。
この自己チュー路線は一生続きそう。