蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

実家への思い

2025-02-06 | 
目玉焼きを作っていて、卵が半熟になり、半熟より8分目ぐらいがいいなあ、、、どうしたらよいものかと、、、ふと自分の若い頃を思い出す。
実家で、グラタン皿にハム、卵、チーズ、ケチャップを入れて、電子レンジでチン!
卵はほどよく固まる。
そのグラタン皿、まだ今もウチで使っている。
現役で、結構、キレイ。

実家にも同じグラタン皿&ソーサーがある。
ウチには3セットある。
ということは、2セットか3セット、置いてきたのだろうか。
実家の日の当たるダイニング、南窓側の食器棚に入っていた。
食器棚は、造り付けなので、建物解体と同時に、今はもうない。

わたしは、実家の記憶が鮮明だ。
生まれ育った幼少期の田舎の家。
(大正時代に建てられた日本家屋だが、幾度かリフォーム、メンテナンスが重ねられ、今もしっかり現役)
玄関を入ると、目線より少し上のところに風景画(油絵?)が、掛かっていた。
次は、(祖母を田舎の家に残し)小学校4年頃に軸足を移した、街にある家。
戦前の建物、2階建て一軒家。
こじんまりしていたが、前庭、坪庭、1階にも2階にも床の間があった。
だが、両親は超多忙で寝るだけに帰っていたため、風情はなく各部屋、実用化されていた。
そこから100メートルの場所にある、父の仕事場。
やがて父の仕事場を建て替え、そこに移る。
22歳の時。ピカピカの新築。
そして、3年後、結婚して家を出る。
それから父の仕事場の建物は老朽化し、築41年で解体された。
更地になった姿をちらと目にした時は、感無量だった。
父と母の夢と汗と涙が詰まったものが、消えた。
わたしがそこに住んだのは3年間だったが、
祖母も田舎から新築と同時に身を移し、最期もそこで迎えた。
(葬儀は田舎の家で執り行われた)
結婚後も、何度かわたしは行き来したり滞在した。
兄夫婦も後半、そこに住んだ。

父の一生が、あの仕事場に凝縮されていた。
栄枯衰退の舞台をわたしは共にした。
役者は幕引きの後、消えて行った。
一コマ一コマが、目に浮かぶ。

涙が出るのは何故だろう?
懐かしんでいるわけではない。
無くなったものに対する惜別の情でもない。
涙は、洗い流す、浄化する作用があるように感じる。
同じ時間を共にしてきた人は、もう姉しかいない。
母もいるが、脳内時間を共有できない。

と、このあと、ツラツラ実家への思いを書いていたが、削除した。
もう実家を出てから43年も経つのに、まだ実家愛が消えない。

実家にお嫁さんが来た時は、わたしは実は喜んだ。
実家での生活がつらくキツくて、やっとわたしの身代わり、肩代わりしてくれる人が現れた、、、と、肩の荷が降りた思い。
あとは、よろしく〜と、後ろも振り返らず脱兎のごとく逃げた。
が、状況は時を経るにつれ変わった。
今のようなことになろうとは、全く予想していなかった。
想定外。

好きだが、精神的には辛いハードな実家。
良い面と悪い面、両面がある。プラスとマイナス。
涙と喜びが同居する。
実家から離れるべきなのに、状況が変わったこともあり、固執している。
わたしの家族メンバーは、なぜわたしが実家に固執しているのか理解に苦しんでいるようだ。
家族メンバーは、嫁ぎ先である夫側の実家にしか、ほとんど足を運ばなかったし、行動を共にしなかったことが大きいと思う。
父は、子供でも女の子は嫁に行けばサヨナラ、それで終わりだから可愛がっても無駄だと、よく言っていた。
今、思えば、父は自分に言い聞かせていたのだろう。

いろんな思いが交錯している。

※写真は昨年、11月の地中海村。
記事と関係ありません。