蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2015-07-29 | 交友

ちょっと、自惚れたり、自慢したりしてみようかな、と、ふと思う。

しかし、このブログ、リアル人も複数お読みなので、書きたくても書けない。
だが、リアル人の皆さん、くまなく、わたしのブログを読んでいるわけではない。
だから、そう目くじらを立てて、綿密に細心の注意を払わなくてもいいかも?
でも、そういう時に限って、1年に1回しか読んでいない人が、たまたま、読むコトもある。
まあ、どうでもいいや~、の気持ちです。

と、ここまで書いて、やっぱり書くのはやめました。

で、自慢を行間に臭わせることになるのだが、そっちのほうがずっと臭って、クサイ。
いっそ、ばしっと明白に言い切ったほうが、書くほうも、読むほうも、すっきりするだろう。
この煮え切らなさを、「奥ゆかしさ」というのか、はたまた、「イヤミったらしい」と言うのか。

ちなみに、わたしは、嘘は言わない、書かない。
たとえば、陰で努力しているのに「ぜんぜんやってない」とか、言わない。
相手を騙して油断させたスキに、自分は頑張って相手を抜かすなんて、卑怯だ。
ただ、どっちとも取れるような、
相手が勝手に解釈して誤解してしまうかも知れないようなことを、におわせるかも知れない。

「美しい肌ね。どんな化粧品、使ってるの?」
と仮に聞かれ、実際は、超高級化粧品を使っていたとしたら、
「なんにも。牛乳石鹸で、体ごと、洗ってるだけよ」
なんて言わない。
「母が使ってたモノと同じもの。おばあさん用」
と言うかも知れない。
それは、そうとう高いものかも知れないが、めちゃくちゃ安いのかも知れない。
相手の想像に任せる。
わたしの場合、実際は、大手薬局でも大手スーパーでもどこでも売っている、安い化粧品を使っているが、
そこまで、正直に言う必要もない。
(安いが、粗悪品ではないし、30年間、なんのトラブルもない)
あくまでも、相手に想像させる。

仮に、家に掛けてある絵画が、安モノだとする。
「この、絵、お高いんでしょう?」と聞かれたとする。
高いとも、安いとも言わず、
「どうなんでしょう。実家にあったものなので」
あるいは、「ご縁あって頂いたものなので」
と答える。
高モノとも安モノとも答えていない。
実際は高い場合もあるし、安い場合もある。

高いものなら高いで、自慢たらしいし、高いものを安いと、嘘をついてまで言う必要はない。
要は、相手の判断に、おまかせする。

目なんて、ほんとうにホンモノを見極めることができる人なんぞ、そういない。
ほとんどが、先入観や、雰囲気、周りの状況で判断する。
ゴミ箱の中に、ホンモノの宝石や、名のある名画は捨てていない、と考える。

モノの場合はそうであるが、努力の場合は?

高石ともやの「受験生ブルース」に、

テスト終われば 友達に
全然あかんと 答えとき
相手に優越感 与えておいて
後でショックを 与えるさ

こういう歌詞があるが、わたしだったら、相手にショックを与えたい気持ちは別にない。

テスト前に、友達に
勉強しているかと 聞かれたら、
ぜんぜんしてないと 答えとき
陰でこっそり しているよ

てなもんである。
(そっちのほうが、よけいかんじ悪いか?)

「ぜんぜんしていない」というのは、嘘ではない。
パーフェクトな人や素晴らしい人の努力の質に比べると、「ぜんぜん」である。
「まあまあ」「そこそこ」しているという答え方もあるが、結果が出る前に、そう言ってしまうと、
なんだかプレッシャーになる。
成功してからでは、さすがに「ぜんぜん」とは(嘘になるから)言えないので、
「たいして、してなかった」と、言いたい。

与えたいとしたら、油断、与えたくないとしたら、敵対心とか、そういうものか。
相手がこっちに対して勝手に張り詰めてくる、緊張は、苦手だ。

話す相手を見て言う。
相手が、同じ目的を持ち、努力している人で、なにをどうしたか具体的に聞かれたら、
質問に対しては、少しは答えるかも知れない。
あまりがんがん言うと、イヤミになる。

事実を否定したり、捏造したりするのはどうかと思うが、
ありのままの事実を伝えても、どんな相手か、接する相手による。
イヤミと受け取られる相手に、わざわざ伝えない。
同じ土俵にいて、お互い、相手のことは良い意味で刺激を受けたり、参考にするけれど、
嫉妬したり(されたり)ライバル視したりする相手には、オブラートに包んで逃げるほうが得策である。

立場はまったく違っても、「自分を確立している人=自立している人」であれば、
さばさばと、爽快な関係が築ける。

他人と自分をいっしょくたにする人は、厄介である。
他人は他人。自分は自分。
他人がそうだからといって、自分もそうでなければならないことは、ない。


べたっとした、人に寄りかかる人は、重くて、面倒だ。
家族であっても、ある程度の節度は必要。
わたしは、家族は、「最悪の場合の砦」、ぐらいに考えている。
とは言いつつ、実際は、寄りかかっているんだとは思うけれど、お互い様だ。
家族以外の人も、そうなのかも知れない。

「人」という文字は、支えあって、成り立っているそうだ。
でも、支え方が人によって違うから、ややこしい。


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ああ、だらだらだらだら長文になってしまった・・・。