蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

知らない幸せ

2015-07-14 | 

価値観は、時代によって変わる。

「もったいない」から「大量生産&大量破棄」「飽食」の時代になり、
やがて、「省エネ」へ。

「ケチ」は、節約、もったいない精神として美徳と解釈されることもある。
食べられない時代があったのに、今は飽食の時代。
賞味期限、消費期限・・・これはおおまかに、製造年月日を確認するものであるが、
腐っていなければ、多少風味が落ちようが、昔なら気にせず食べていたものも、捨てる。

食べ物だけではない。

モノのなかった時代に育った人は、モノを捨てない。
集めて集めて、ゴミ屋敷に。
今の人は、モノのない贅沢を味わう。
モノは、アンチ贅沢というわけだ。

コレクター、収集家は、どうなる?
欲しがる人がいるなら、モノで持たずに、データ化して換金すべき、という考え。
持っておくな。モノが増える。
モノは、なるべく持たないのが、洗練・知的生活のステータス。

ロココ調のゴテゴテ猫足家具なんかは、どうなる?
代々伝わる、家具は?

大きなお屋敷、広大な庭は?
たくさんの洋服、バッグ、靴は?

要らないものは、捨てろという考え。
今は、その考えが主流になりつつあり、モノを必要以上に持つと、罪悪であるかのごとく。
物理的側面での断捨離から、精神的側面からも、ときめかないモノは、捨てろ、と、
さらに年齢が高くなると、終活へと、世間では、ますます断捨離に拍車がかかる。
モノへの執着は、老醜のごとく、醜いものでもあるかのように。

「要らないもの」の定義が、キーである。
そこに、各自の価値観が大きく顔を出す。


「使わないもの」「必要ないもの」は、捨てる、処分する。
子供たちと話していると、世代間ギャップを感じる。
というか、世代というよりは、個人の考えの相違だろう。
しかし、個人の考えは、時代の流れを反映する要因もある。

義母なんかは、どうなる?
昔、昔、大昔のモノを所持していることに誇りを感じている。
結婚当初、わたしが、古いものが好きだということがわかり、義母は、喜んだ。
叔父が「処分したら?」と言おうものなら、烈火のごとく憤慨する。

美術品は、美術館で観るものであって、個人が所有するものではない、と、
お金に換えたら?という、またまた、お金主義。
家もモノも、すべて、不良債権化を未然に防ぐ。
子孫に美田は残さない。おカネも残さない。それがいいと言われている、
なのに、手入れができない家を残されても、困り果てている人が、全国に多くいる。
家は、住んでこその継承、住まないと愛着はわかない。
土地、地域そのものに、愛着がないと、住まいにも当然、愛着はない。
家は家族の歴史や文化を入れるもの、箱である。
ソフト面で継承されない家は、住んでいた人がいなくなったら、ただの箱だ。

コンパクトに身奇麗にしろ、という。
墓も持たない人がいる。
後々、面倒をかけるのは、しのびないからと。
これは、いつから、こうなったのだろう?

確かに、墓掃除、墓参り・・・面倒である。
たいして信心もしていないのに、負担が大きい。
葬式も、実質本位になってきている。
母たちの世代からすると、晴天の霹靂(へきれき)だろう。
家は、修理を重ね、長く大切に使い、愛着と誇りのシンボルである。
いかにお金がかかるか、と、愚痴を装いながら、じつは、プライドが大いに満たされている。
わたしの世代は、まあどうにかなるとして(どうにもならないかも知れないが)、
子供たちの世代にはバトンタッチされず、消滅しているものに対して、お金をかける気にならない。

わたしは、つい最近まで、いかに世代間継承をすればよいか、そればかり、頭を悩ませていた。
しかし、子供たちのドライな発言を聞くと、
大切にしていたものも、時代の波とともに、ぷつんと切れることがある。
母たちには、そんな考えを聞かせるのは、酷なので、
なにも伝えず、価値観を否定され、継承されない今後のことであっても、
なにも知らないまま、この世を去ってもらおうと考えている。
ひょっとして、ひょっとすると、自分自身も、古い価値観が色あせて見えてきているのかも知れない。

それと・・・
目上の勢力、お年寄りたち・・・
価値観のズレや、考えが合わないことも出てきているが、あといくらかの年月が経つと、いなくなるので、
あえて衝突はせず、耐えて、待つ。
そうやって、わたし自身も子供たちから、指折り数えて、じっと我慢されて、自分の方針を貫くのかも知れない。
自分がいなくなった時は、あとのことは知らないんだから、それでいい。
自分がいる間は、ガンコを貫く。

知ることばかりが幸せとはいえない。
知らない幸せもある。
わたしとて、自分の目の黒いうちは・・・などとガンコに頑張っていたとしても、
自分がいなくなったら、すべて処分されている可能性は、大、大、大である。
ガラクタや、モノは、自分で断捨離したとしても、家、墓、そういったものも、処分されているかも知れない。

せめて、負の遺産を残さないよう、頑張るか。
孫のお守り、ちょっとぐらいは、お手伝いしてあげなくっちゃ、と神妙な顔になってみる?

 

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ブログへの取り組み

2015-07-13 | ブログ

毎日、毎日、ワクワクしながらブログにアップしていた時期もあった。
今は・・・?

毎日、アップはしない。
しかも、どんより、アタマが重~い。
ブログに書いたからといって、スッキリするものでもない。
第一、書く気持ちにあまりならない。
自分だけよくても、楽しめないようになってきたようだ。
かといって、皆様に楽しんでいただける記事が書けるか?
おそらく、超絶つまらん記事になることだろう。

一人旅が寂しくなってきたのと似ているかも知れない。
自分だけよくても、なんだかうら寂しい。
かといって、皆で、わいわい派ではない。

私は、とても人見知りである。
最初が、うまくいかない。
でも、こころが通じると、けっこう、すんなりいく。
そこまでに至らないことが、ほとんど。
それはそれで、いい。

友達100人、要らない。
敵もあまり居ないと思う。
モグラのように、アタマを地表の上に出していないので。


わたしと似たようなタイプの人を、外の世界で見かけると、苦笑いする。
ああ、わたしって、きっと、あんなのだろうなあと。
決して素敵とは思わない。ヘンな人である。


自分の雰囲気が、最近、少し変わってきたように思う。
価値観の変化だ。
今まで、自分が優越感を感じていたりしていたことが、逆になっている。
ちっとも優越でもなんでもない。
むしろ、思いあがっているだけで、恥ずべきことかも知れない。
では、今まで劣等感を感じていたことは?
それが、また、逆になるならよいが、
そのまま残留して、さらに開き直っていたりする、ふてぶてしさ。

季節の変わり目は、価値観の変わり目。
人生の変わり目なのかなあと。

 

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タイトル、ダサ堅苦しいです。


おとなしく、じっとしてろ、っていっても。

2015-07-07 | 日々のこと

今、自分の心理状態、脳ミソの中身が、把握できない。
微ウツ(プチ欝)かも知れない。

わたしは、そうとう天然なので、ウツとは縁がないのだが。
季節の変わり目は、体の変わり目、人生の変わり目か。

体と心はリンクしているという。
体はまったくどうもなく、ただただ順調に老化しているのみ。
脳ミソも然り。

ちなみに、脳の老化は、まともに正面から向かい合って真摯に受け取っていない。
そんな現実を直視したら、正真正銘ホンモノのウツになってしまう。
自分の都合の悪いことは忘れる、自分が不快なことは、知らなかったことにする。
なにもなかったことにする。
見なかった=知らなかった=現実ではない=現実逃避→ウツにならない
ウツにならないことだけが、プラスの結果で、その他の全ては、状況悪化の一途かも知れない。
いいの、いいの。
心が健康でなければ、身がもたない。

ということで、強引な危機セルフ・コントロール。

なんの問題もない日常、現時点、この一瞬は、不安のかげりもない。

 一秒後には、突然の不幸に見舞われることだってあるが、
そういう想定はしないことにしている。
大災害などの危機管理は必要であるが、それ以外の身の回りの不幸を想定すると、
事実が、想定のあとをひたひたっと忍び寄ってきて、実際に起こるかも知れないので、
楽しいデキゴトの想定しかしない。

じゃあ、ウツはやって来そうもないが・・・。
この状態は、ウツではなく、素人の無知識、デタラメ診断である。


4兆円もの資産を寄付するといっている、どこやらの国のお金持ち。
金ピカの何百もの部屋がある大豪邸に住んで、飛行機や、豪華船や、いろんなものを所有している。
もう、お金はいらんそうだ。
だから寄付するらしいが、へんな投資家が喜ぶだけになってはつまらない。
といいつつ、今の生活を手放した上での寄付などではないのは、明白。

※本人も勤勉な仕事ぶりの投資で富を築いたらしいけれど。

それより、投資家ならまだマシだが、
世界を一変、震撼させてしまうような、怖い勢力の手に渡ったりしたら、えらいことだ。
そんなことなら、寄付などせず、今の生活で満足してもらっておいたほうが、ずっと世界平和のためになる。
どうしても寄付したいなら、ぽんとギリシャに寄付すればいい。

わたしのウツなど、かわいいものだ。しかも、絶対、ウツじゃないし。

出番への待ち時間が長すぎて、退屈しているだけの状態だと分析する。
待っている間に、面白いことを見つけてしまうと、今度は出番の時間に間に合わなくなる。

人生の持ち時間、調節は難しい。

 

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「出番」は、千差万別、ひとそれぞれ、人の数だけある。
出番がないのが、いちばん、哀しい。