蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

喧嘩

2022-05-19 | 交友
こころが落ち着かない。
精神的不安定。
人間関係のもつれ。
もやもや、イライラ、チクチク、、、
嫌だ。
早く解決したい。
自分で決めて、行動に移せない。
人にも相談できない。
アタマが痛い。

タイミングを見計って、手を打たなければ手遅になる。
それがわかっていながら、みすみす指を加えて何も動いていない。

そもそも発端は、今月9日。
8日夕方に原因と見られる出来事が起こった。
なんだか気分を害していたようだったが。
で、9日早朝に向こうから「距離をおきましょう」と提案された。
しかし、その1週間後に、「仲直りしよう」と再提案を受けた。
さらに翌日、「どうなの?」とダメ押し。
それから今日で2日経つ。

喧嘩発端からもう随分長い時間が経ったと思っていたが、まだ1週間半しか経っていない。
相手はその時間で充分、再生、修復できると感じている。
わたしは、舌の根も乾かぬ短い時間と感じている。
この時間の取り方、感じ方に大きな開きがある。

第一、距離を置きましょう提案から、たったの1週間で距離置き期間終了宣言なんて、早すぎ、短すぎ。
せめて1ヶ月、数ヶ月は必要だとわたしは思っていた。
1週間なんて、距離でもなんでもない。
単なる口から出まかせの言い争いである。

なかなか終わりそうもない長期化にもつれ込んだと感じる。
そもそも争いになってしまったのは、相手が売った喧嘩をわたしが買わなかったから。
だんまりを決め込み、黙秘してしまったところに、喧嘩が長引く要素がある。
ああまたかと、さらっと流せば良いものを、じつは相手の距離を置きましょう提案をわたしは長い間、待っていた。
原因、キッカケはなんでもよい。
相手から言ってきたらソレに瞬時に乗る。
喧嘩の火蓋を切ったのは相手である。
小さなことで短気、癇癪を起こして喧嘩をふっかけてきたのだが、今までは相手にしなかったが、わたしはそれまでの鬱憤を溜めに溜め、もう無理、というところまで来ていた。
相手の一言で、堰を切ったように溢れ出し、動いた。
こんな取るに足らぬ揉め事なのに、何を意固地に雪崩が起こるように崩れていくのか、相手は理解に苦しむだろう。
キッカケは何でもいいのだ。

街で知らない人の肩が触れて、ムシャクシャしていた気分の時に、不満やストレスを爆発させるスイッチとなり、傷害事件に発展するケースが世の中にはある。
そんなかんじか?
今までの溜まるだけ溜まった不満を切り出せずに溜め込み、どう切り出そうかと様子見していた。
その溜まった不満を相手は気づいていない。
そこに問題がある。

わたしも悪い。
小出しにすべきだった。
だが、少しでも言おうとすると、相手はそんな話は聞きたくないと遮った。
わたしの口を封じた。
全く聞く耳を持たなかった。
相手も悪い。
なので、喧嘩両成敗。
どっちも悪い。

さて、今後、どうなるのか。
仲直りするのだろうか。
激情が収まり落ち着いたら、また静かに行方を探ることが出来るだろう。
毎日、朝起きると色々思う。
復活、断絶、どっち?
せっかく断絶出来る良い機会を相手側から作ったのに、この好機を活かさない手はない?
では、今までの積み重ねは?
そんなに悪い人なの?
一日の中でも時間帯によって思いが変わる。
自分の考えが変わらなくなるまで待つ?

いつまで経っても変わり続けるようなら、もう判定を制御できない。
成り行きにまかせる。
(出た! 思考放棄、成り行き任せ)

品性

2022-05-17 | 無題
環境は子供を育成するには重要である。
人格形成をはじめ、いろんなことの礎となる。
特に品性は、環境から生み出されると感じる。
なぜなら、意図して備わるものではないから。

ずーっと前に飛行機に乗った時。
ファーストクラスあたりから姿を現した、とてつもなく上品な一家がいた。
ちょっと昔の皇室御一家のような。
独特のオーラを放っていた。

ちなみに、品性は、意識した途端に消滅する。
知性は努力を積み重ねたりすると身につく。
が、品性は無理。
品性があるように振る舞う、真似事、演技は出来る。
演技が身につき、本当に品性があるかのようになることもある。
が、取り入れるキッカケ、ノウハウが演技からなら、微妙な品性である。

ではあるものの、この演技はクセモノである。
見ず知らずの人を騙すことは出来る。
だが、騙せるのはある程度であり、ニセモノは話をしたりすると見破られる。
話し方が上品であっても、話の内容がお粗末だと、これまた見破られる。
見破る能力があることこそ、逆に品性が備わっていないのかも知れない。
品性は理屈ではない。
ほぼ感性に近いとわたしは捉えている。

アッパークラスに属していても、卑しい人柄というものがある。
これは生まれつきのものだと考える。
逆に、底辺にいても、潰れないこころがあると思う。
人を下に見る気持ちこそが、賤しいと考える。

環境は人の基礎を作るが、その上に積まれる数々のもので、さらに個性は強まる。
輝きを増すのなら結構だが、アクやクセが濃厚になることもある。
色んな個性がある。




学力と学歴

2022-05-15 | 無題
学歴と学力は違う。
博士号を取得しているある人が、若き日のわたしに言った。

「博士号は、僕にとっては足の裏に引っ付いているご飯粒のようなものです。
取らないと気になるだけです」

なるほど、言い得て妙。
博士号を取っていない、勉強嫌いの実践型タイプは、学者ではない?
学者さんならやはり何か取らないと、、、野次馬のわたしは思うのだが、学者さんではないのなら、別に必ずしも必要ない、、、と、「屋外のマスク着用は必ずしも必要ではない(岸田発言)」のような、あいまいなことも言ってみる。

ちなみに、わたしのピーク時の学力は中学3年生の時の、中学3年ぐらいの学力(そのまま)。
(他の生徒と比べて学年何位とかではなく、自分の今までの人生のなかで)
中学校の国語の授業は、新聞の「天声人語」を毎日、教材にしていた。
先生が課題にあげた漢字を同級生がさらさら書いているのを、カッコいい〜と、うっとり見ていた。

さて、今のわたしの学力は、小学生の孫にぐんぐん追い越されている感がある。
「日本語で遊ぼう」シリーズの「ことわざカルタ」などは、完敗で、いまや5歳の3番目孫にも負けかけている。
「ばあちゃん、起きてる?」と言われる。
「あ、ごめん、寝てたわ」なら、サンドイッチマンのネタになる。

トランプのゲームで、「大貧民」という種目がある。
これは若い頃、よくやった。
最近、うちに数家族が集まると、手が空いているメンバーは、このゲームをする。
小学生孫たちは、メキメキ腕を上げている。
ゲームのルールを覚えたての頃は、やり方がよくわかっていなかったが、今や、ガンガン行く。
これがまた、性格がよく出る。
良いカードを大事に残して最後まで使い切れずに負けたり、ここぞという時に勝負に出たり。
カードの使い方が、上孫と次女が似ている。
最後まで持っておくタイプ。
また熟練すると、違う傾向の使い方をするようになることだろう。
あ、わたしは、あっさり負ける派。
最初から配られたカードが悪過ぎる、、、と、自己擁護。
知恵と熟考と機転と負けん気がない代わり、運だけで行っているのは、やはり性格が現れているように思う。
今や、メンバー補充要員的な役割で、頭を使わず場当たり。
アタマが緩くなるはずだ。
だが、勝つ時もあるので、面白いものだ。

学力と社会力も違うし、商才も違う。
知識は助けになることがある。
だが、邪魔になることはないにしても、先入観や決めつけは良くない。
柔軟性。
しなやかさと、したたかさ。
両方あれば良いのだが、これがまた両立は難しい。



人は、見た目?

2022-05-14 | 無題
ルッキズムという概念があるらしい。
外見至上主義。
外見的な差別。
外見が良い人を高評価し、外見が悪い人を低評価する、ステレオタイプの考え方。
若い人が陥りやすいようだ。

人生経験が少ないと、そう思い込むのは理解できる。
視野も狭いし、生きてきた年月が浅いし、色んなことに出会う機会も少ない。
うわべで物事を見がち。

しかし、、、
例えば、病院に入院して手術台に乗ったら、外側よりも、皮膚の内側。内臓、骨、肉。
だが、病院を一歩離れたら、見かけが人に与える影響は大きい。

さらに例えば、、、
今回、わたしが参加したミニ・ジャーニー。
服装は何にしようかと迷った。
わたしは、旅はカジュアルな軽装と決めている。
つまり服の状態(シワや汚れ、磨耗)が気になるような上等な服も、おしゃれな服も着ない。
ある時、同じ海外旅行ツアーに参加していた男性は、「僕は旅は1000円のTシャツと決めています」とおっしゃっていた。
経済背景や社会背景などの個人背景には関係がない、このスタンスには強いメッセージ性を感じた。

ではあるが、、、わたしはそこまで割り切れない。
見た目も気にするし、快適性重視ではあるものの、ちょっとだけ洒落っ気も欲しい。
自分なりの微々たるこだわりである。

とは言え、平日、新幹線に乗り込むわたしは、ビジネススーツに身を包む人々にはどう映るか?
なんて、(誰も見ていないのに)そう考えてしまう。
まあ誰も見てない。
が、しかし。
毛玉が出来たカットソー。
実はこれは次女が着古したお下がり、お古なのだが、わたしは愛用している。
旅に欠かせないのは、暑さ寒さの調整が出来るもの、そして、(これは長女からのキツイ指導だが)、荷物量を最小限にすること。
これらを考慮すると、高級度、オシャレ度がガタっと落ちる、というか、実質本意で足が地に着く。
で、ツアーでご一緒の女性がステキな服を着ておられると、ちょっと怯(ひる)む。

ステキと言っても意味が何通りもある。
●(1)服そのものがステキである。(品質、デザイン)
●(2)ステキに服を着こなしている。(組み合わせ、個性)
この2つは違う。(両方兼ね備えている場合もあるが)
わたしの場合は明らかに前者(1)ではない。
なので、無理矢理、後者(2)を狙う。

ルッキズムから大いに離れている。
外見と言っても、自分で自在に変えられる外見ならいざ知らず、変えられない外見に対して、人は満足できないで劣等感を抱くのだろう。
「人からどう見えようが、自分が満足する」というのは結構なことで理想なのだろうけれど、見方によっては、負け惜しみだったり、勘違いだったり、裸の王様だったりする。
あくまでも、見方によれば、であり、「それがどうした!」と、開き直り逆ギレするのも、ひとつの強硬的自己肯定。
クヨクヨ卑屈になるよりは、元気があってマシかも知れない。
痛々しい、とも取れる。

で。
新幹線の中のわたしがどう見えようが、ビジネスで頭がいっぱいの乗客たちには無関心。
席が空いているかどうかの、人間が座っているか、いないか、のチェックしかないだろう。
仮にわたしがすごいオーラを放つ絶世の美女なら話は別。
残念ながら、空席チェック要員。
しかも「残念!」と思わなくなったのは、年の功。(言葉の使い方、わざと間違えてます)

今さら、すごい国の王子様(古い)や、IT社長(ちょっと古い)が現れても、また次の人生街道をどうしようかなんて迷い悩むのも疲れる。
(究極の、取らぬ狸の皮算用)
今なら、把握できないぐらいの財産があったとしても、「世界中を飛び回ったり、お好きな別荘で優雅に過ごしたりしましょう」なんてことになっても、しんどい。
(究極、とら狸を通り越して、もはや、たんなる妄想)

というわけで、我が家が一番。
いろんな破天荒な楽しい夢を見て、目が覚めるとうちの布団のなかだった、なんてかんじか。
わたしの実年齢より20年ぐらい歳上発想だが。

見た目は自分で無意識で作られる。
実は意識して、無意識の自分を作り上げている。
なりたい自分を目指して努力する。
雰囲気、オーラというものは、見た目の一種かも知れないが、カタチではない。

ちなみに、話は戻るが、今回のツアーでご一緒の女性で、すごく洗練された(前述の)オシャレさんがいた。
思わず後退りして、少し離れたところからチラ見して、ファッションをチェックしてみたら、、、
いわゆるオシャレ上級者の見本みたいな人がやっている、ヘアスタイル、服、靴、メガネだったりする。
スタイリストさんが俳優に服装を選ぶような。
完璧さがプロっぽい。
で、わたしは思った。
オシャレだけれど、すべてオシャレな手本で既にお見かけしたようなかんじで、かえって個性がない。
それなら、時代がかった、昔の少し丈の短めの窮屈そうなワンピースを着ている女性のほうが、個性を感じた。
その人の歩みを感じた。

オシャレな人は、その時その時のトレンドをうまく取り入れているに過ぎない。
「オシャレな人」という特徴から、個性が見えない。
隙がなくて苦手だなあ、と思っていたが、別に敬遠する必要はない。
毛玉があるお下がりであろうが、選択肢のある中からわざわざ選んでそれを着ているわたしは、どっしり堂々と構えていればよい。
どう見えようが、自分が選択した道は、例え分野がファッションであろうが、揺るぎない。
(ファッションには無頓着、という選択肢もある)

人相や着るものは、見ず知らずの全く知らない赤の他人を想像する手がかりとなる。
ルッキズムは、容姿そのものを含めた、全部を判定するのだろうか。
容姿だけを取り出しても、成長するにつれて変化を生じる。

ちなみに、わたしは割と人の中身を見透かしてしまう傾向があり、見え過ぎる弊害も感じる。
外ばかりにこだわっても、「この人は外ばかりこだわる人」などと評価されたら、嫌だろう。
何ごとも自然体が良い。
(と、いつも同じことを言っている)

長くなり過ぎて、眠い。 
自然体すぎる。







お一人様がいっぱい

2022-05-13 | 
今日も豪邸。
このお家、昭和7年に有名なお殿様の子孫が東京で自らが独学で設計し完成されたもの。
第二次世界大戦後7年間、GHQに接収された間は、施主は敷地内に小さな家を建て住んでいたとか。
その後、返還され、1999年、103歳で施主が亡くなり、敷地売却に伴い取り壊されることになったが、歴史的価値があり遺すべきとの声があがり、愛知県岡崎市に寄贈されることになった。
解体、(東京から)輸送、再び組み立てられ、岡崎市で復元されたのは平成24年。
はぁ〜。ご苦労様。

それにしても、このお殿様の子孫、由緒正しい本多忠次さん、長生きされたものだ。
なんと103歳!
この人がこの世を去るまで遺族は手をつけられなかったのだろうが、激動の時代を生き抜いた執念とも言えそう。
(晩年、最期はどんなかんじなのかは詳しくは知らないが)

三○ホームのモデルハウスみたいだった。
家具は、重厚で某ブランド○○シリーズ展開された家具のよう。
(実際は、別注オリジナル)
住宅メーカーは憧れのテイストを取り入れ、庶民に夢は託されたのだろう。
鳩山兄弟のご実家もこんな感じの設計、間取りだったような。

他にも松坂屋の元祖の伊藤さんの大邸宅。
最初は敷地1万坪の広大な土地に各地から移築された名建築もズラリだったらしいが、縮小された。
まるでテーマパークのよう。
東海にはVIPをお迎えする迎賓館がないので、迎賓館の役割をしていたとか。
素晴らしいのではあるが、、、
わたしは、へんに国内外あちこち見て回っているため、目が肥えてしまい、どうもいけません。
内装に、インド風、中国風などのテイストを盛り込んであるが、あくまでも○○風なので、どうも、うさんくさい。
施主が施工直前に訪れた国で受けたカルチャーショックを反映しているのだろうけれど、特徴を強調するあまり、ギタギタ、ギラギラして、塗りもテカテカ。線もやたら太い。
前解説によると、「派手さを抑えた上品な嗜好」ということなので期待したが、、、
わたしの好みではない。
本場、本物に勝るもの無し。

と、可愛げのない感想。
100年近く経つと、当時のまま維持すること自体が困難。
莫大な維持費、メンテナンス費用がかかる。
関係ない外野は入場料を払って写真をパチパチ撮るのみ。

しかし、昔のお金持ちの豪邸は、お手伝いさんがいないとやっていけなかった。
接待部分と生活部分、主人家族と使用人。
4つのゾーンに分けられた。
が、取らぬ狸の皮算用で、あり得なく何の意味もない仮定だが、
わたしなら、嫌だ、そんな生活。
金持ちになってから言え!と、お叱りを受けそうだが。

最後は、格式ある重厚なクラッシックホテル(1912〜)で昼食で、このツアーは〆だった、、、。
参加者は、お一人様8人、ご夫婦6組。
お一人様は、全員女性。
参加男性は、奥さんの要望で引っ張って来られたと思われる。
いかにも女性好みのツアーだった。
最後のお一人様席で盛り上がったのは、相続の話。
なぜか、ここで、ぱーっと花が咲いていた。
不思議な面白い現象だった。

こんな別荘、どうかしらん

2022-05-12 | 
豪邸を何軒も拝見している。
遠路遥々、新幹線に乗って、明治、大正、昭和のクラッシック建築を見て回っている。
時代に逆行する、ちょっと変わりモノのわたし。
(ミニ・ツアーに参加)
だが、あいにくの雨。
だれか、雨女がいるようだ、、、。

写真を撮り過ぎて、スマホのバッテリーが不安。
雨に濡れながら不自由な状態で写真ばっかり撮っている。
なにがしたいんだか。
明日も豪邸。
見るだけは、楽しい。
掃除もメンテナンスも管理もしなくていい。

専業主婦

2022-05-11 | 時事&世の中
ママ友とのランチ会!
ママ友たちが専業主婦だと、目の敵にされる場合がある。
残念ながら、わたしの周りには専業主婦ランチ会はなく、あるとしたら老人会ランチ会か?
といっても、両方参加しないが。

そもそもランチ会、あまり好きではない。
「美味しいものを食べる会」や「ランチしながらコミュニケーションをとる、情報交換する」なら悪くないが、ダベるだけの自己顕示、自慢の会ならNG。
暇つぶしの会も、ノーサンキュー。
子育てや家庭でのストレスが溜まって、しゃべって鬱憤を晴らす、こころの病気にならないための自己防衛策なら良しとしよう。
ただし、一方的に話すばかりではなく、聞くこともしなければならない。
順番に胸のうちを吐き出す、被害者の会みたいなものもある。
閉ざされた個人的なものの場合、カウンセリングなんてのもある。

どうやらそういうのではなさげな、ママ友ランチ会。
ひと昔前なら、富裕層的ファッションに身を包んだ、おしゃれで美しいママたちが、都心の高級ホテルでランチ会なんていうのもあったようだ。
(今もある?)

いつの時代からか、専業主婦は肩身が狭くなってきている。
なので、堂々と、そんな税金泥棒的な目で見られるかも知れないような行動を白昼やらかすのは避けたいところだが、意識や価値観は人によって違う。
自分独自の独立した能力で経済力を持っているのは素晴らしい。
そのためには、優雅におしゃべりランチには興じられないはず。
情報収集だとかミーティングを兼ねてだったりする。

ちなみに、、、
ヨーロッパの上流階級には、ノブレス・オブリージュという概念がある。
上流層の人には上流が故に果たすべき義務があるらしい。
(国の戦いには王族自らが戦闘地に赴くなど)
日本には根付かない概念だそうだ。
日本では、その概念を無理やり既存のものにあてはめると「おかげさまで」「感謝」などになるとか。
外国のチャリティーイベントもその宗教的教えの一環かと想像するが、仏教の歴史が長い日本にはあまりチャリティー精神が形成されていない?

と、いつもながらに話は逸れている。
ママ友ランチ会も、富裕層であるなら、自分たちだけの楽しみや遊興に終わらず、もう少し視野を広げて活動していただきたいものだ。
が、絵に描いたような理想はさておき、我が子のお受験の情報などをにこやかに談笑しながら(必死で)入手するのも、誰に後ろ指されようか。どこが悪い。
自分の幸せを自分で掴みに行きたい、積極的行動である。

打画鹿市、、、(盗用はやめようね、はい)
かつて、過去、わたしが中学生の時、子供(1学年上と2学年上のクラブの先輩)の教育に熱心なあまり、置かれている状況以上に無理をし過ぎて、結果的に法に触れる事態を起こした母親がいた。
その子供である先輩たちはとても素敵な生徒たちだった、、、が、その母親は加害者。
被害者は、わたしの母。
熱心なのは良いが行き過ぎや、手段構わずというのは良くない。

話を戻す。
問題は、皺寄せを受ける人がいる場合。
国の(一部)税金で保育してもらっているなら、保育中、ママたちは何をしているのか中身を問われても仕方がない。
とやかく言われたくなければ、お抱えナニーや保育士さんを自費で雇っていただくしかない。
そんな優雅なケースではない、保育所に
預けられない諸々の例外もあるようなので、一概に言えないのが複雑なところ。

対価を得るための労働。
「労働して対価を得る」という順序が理想だが。
生活環境によっては理想ばかり言ってられない。
現実とはそういうもの。
そして、働きたくても働けない人もいる。
ママ友ランチ会とはまた違う世界である。





おうちフリータイム!

2022-05-10 | 日々のこと
何事も力が入ると宜しくない。
肩の力を抜いて、、、

はぁ〜っと、ため息が出る。
わたしの性格の弱さが生み出す、スッキリしない事態。
欲の深さや煩悩から自滅の道へ。
今、中途半端なところで繋がっている。
両手で掴まず、片手を離せばよいのに、離せないでいる。
・・・
自分で作る悩みは、自分で解決するしかないのだが、、、 ふぅ。
 
佐手戸。(また流用、引用)
素麗葉宗戸。(しつこい)

おうち自由時間を満喫している。
FMラジオを聴きながら、SNS。
好きな(調理時間ゼロ)ものを好きな時に食べる。
気分転換に、椅子から立ち上がった時に、ツイスター(健康器具)でウェスト絞り運動。
この、ぐるぐるクルクル回るツイスターは円盤状になっていて、床に置いて、その上に両足を揃えて乗り、腰を左右に捻る。
TVを見ながらでもオッケー。
これと、伸びるゴムみたいな健康器具があり、びよ〜んと両手で持って引っ張り、上半身の筋肉を強化する。
これは、けっこうキツい。
ウエスト・ツイスターは、孫たちも面白がって遊ぶ。
すぐ飽きるのは見え見えだが。
夫も、ちょっと一瞬、乗っていた。
しかし、絶対に利用しない雰囲気。
わたしは、とりあえず、少し頑張る。
楽して効果があるとは思えないが、精神的に自己満足をもたらしてプラス。
何ごとも自己満足は、幸せを作る。
二つの健康器具、しめて1500円ぐらい。
自己満足を感じ幸せを得て、おまけに身体が温まり、ついでにご褒美として、ウエストが締まる。
「キュッと締まる」と書こうかとしたが、やめた。
(さすがにそこまで夢見ると、あとで失望感が押し寄せるから、ほどほどに)

※写真を載せようかと思ったが、やめた。
グッズ紹介は、わたしは好きではない。

昨日は、趣味テキストDVDを2時間近く見た。
もう結構、十分、アップアップ。
今日は、教科書を読む予定。
図書館で取り寄せ予約して借りたもの。
今日が返却日のため、今日一日で早足で読んでしまおうと焦っていたが、インターネットで図書館にログインして返却を2週間延期した。
で、急に余裕ができて、今、だらけている。

が、勉強を通して思うことは、、、
運動はほんのわずかでも行うことはできるが、アタマ(脳みそ)は、限りなく弱っている。
聞いても読んでも見ても、理解できない。
これはマズイ。
文章以外のもの、イラスト、動画での説明なら、、、プロセスはよくわからないものの、結果として指導される理想的な動きがビジュアルで認識できる。
なんとなくイメージできる。
しかしながら、答えはわかるが、理屈やノウハウは、よく理解できない状態。
なぜそうなるのか、なんていうのは、いたってめんどくさい。

わたしは小さい頃からそうだった。
短所である。
プロセスはさておき、結果を知りたがる。
過程が理解できなくても、答えだけが合っていればそれで良しとしてしまう。
絡まった糸は解さず、絡まったまま切って、先に進む。
理解するのが遅いと、次に進めない。 
なので、とりあえず後から理解することにして、先に、次に進む。
これをどんどん進めるとどうなるか?

どこかで、行き詰まる。
中級ぐらいまではクリアできても、上級には進めない。
あらま。わたしの人生と同じ。

なんて書くものの、実はそういうことはない。
わたしは、わたしの人生がわかっているのだ。
なので、あえて、いじくらない。
結果に進むまで、終盤にたどり着くまで、そっと見守る。

一生、闘い続ける人もいる。
そういう人は讃えられたりする。
どうぞ、頑張ってください。
わたしは、闘わない。
答えはわかっているのだから、プロセスは何でもよい。
だが。「どうでもよい」のと「何でもよい」のは違う。
「どうでもよい」のは、価値を見い出していない。無価値だと捉えている。
「何でもよい」は、全てを肯定して、価値があるとみなす。
言葉としては似ているが、意味は正反対なのだ。
ネガティブとポジティブ。

結果はさておき、努力に価値があるとする考え方と、
プロセスはさておき結果が全てという考え方がある。
わたしは後者、結果派。
プロセスは「どうでもよい」わけではなく、「何でもよい」ので、とりあえず結果が大事。
ノウハウや、ルール、決まり事はない。
が、闇雲に取り掛かると無駄が多いので、先人や先輩たちの知恵を活かす。
「失敗は成功のもと」というのもある。
成功そのものも、人によって、価値観によって中身が違う。

テキストに書いてある順序で一つ一つコマを進めていくのが、能率は良いかも知れない。
が、なんとも言えない。

さて。
それはそうと。

大切な自由時間が、だんだん減ってきた。
しかも、眠くなってきている。
こんなことをしたかったわけではない。はず。

あ、そういえば。
俳優の斎藤工、面白いキャラクターだ。
シュタイナー教育を受けていたとは。
長身でやたら美形なだけに、見た目の良さが際立ちすぎ、独自の個性を確立するのが困難だった。
わたしが最初に受けた印象は、2010年、「ゲゲゲの女房」に出演していた時、やたら美しい人なのに、役が汚すぎてクセがありすぎて、意図しすぎの制作側の、わざとらしさを感じていた。
今になって、あの頃の違和感が理由がなんとなくわかったような、答え合わせができたような気になった。

と、話が逸れた。
とりあえず、コーヒーを飲んで、お勉強タイム、スタートしましょう。
あ、その前に、明後日から行くミニ・ジャーニーの準備をしなければ、、、。

冒頭の、けっこう深刻な悩みは手を付けてないが、動かないことによって、事態は動くだろう。










キレる人

2022-05-09 | 日々のこと
わたしのブログは、基本的に3人の方々にお越し頂けたらそれで書いた甲斐がある。

駄菓子菓子。
(すみません、引用、、、いえ、盗作はNG)
素麗葉宗戸。(麗→「レ」と無理矢理、読む)
これなら良いか。
いや、よくない、、、。

By the way.
わたしのブログは自分だけに興味があることしか書かない。
しかも、幼い頃から仙人であるが故、色んな世間の人々の関心事とは、ズレている。
まあそれはそうと。

昨日、趣味仲間Zさんとの会話。
顔だけ知っているAさんが、不治の病にかかっていて、寿命維持はカウントダウンらしい。
そのAさんが会場に顔を出しておられた。
そんな様子は感じられないお姿だった。
帰りに、駅近くのフードコートで知り合いのお仲間と病気のことを話しておられた。
わたしは、Zさんと寄ったそのフードコートで、たまたまAさんの一人挟んで横に座っていたため、話が聞こえた。
「もっと早く、検査して気づいていたら、、、もう遅い」みたいなことをAさんはおっしゃっていた。

その話とは別に、それはそうと、、、という流れで、わたしは全く別の人の話をフードコートを出て駅に向かって歩きながらZさんにした。
(ダンス)ペアの組み合わせが変わった人(Bさん)が会場に新ペアで来ていたけれど、前の人と組んでまだ4ヶ月なのに、もう解消か、と。
で、「ペア(シップ)の命は短いですね」と、わたしはZさんに言った。
するとZさんはいきなり怒り出して、
「まったく違う話をしている!
ペア(シップ)と命は関係がない

かなり怒って先にどんどん歩き出した。
はあ???
なんで、ここで怒る?
わたしは不思議で仕方なかった。
病気で命が短いことと、パートナーシップの命が短いことは、全く別の話であるし、別の人(AさんとBさん)の話題。
にもかかわらず、「命が短い」というワードのみにZさんは過敏に反応して、話がチェンジしていることにアタマが付いていかず、爆発した。
これ、わたしが悪いのか??
細かく、丁寧に、いちいち時間をかけて説明しなければいけなかったのか?
わたしの話し方が悪いのか?

「話は全然変わるけれど、さっきの病気の人Aさんとは違う人、Bさんのことに、話題を移しますね。
AさんとBさんは別人ですからね。注意してくださいね。
命が短いという表現は、【生物の命】という本来の意味だけでなく、【長持ちしない】という生命ではない事柄や状態に使う場合もありますから、混同しないでくださいね」
と、ゆっくり、相手の理解度を確認しながら話さなければいけなかったのか。
しかし、Zさんはまだ仕事は現役でわたしと同じ歳。
そこまで丁寧に、一から十まで細かく順を追って話さなければならないのか?
たわいない雑談に対しても、上司でも顧客でもない相手に、自己責任や反省を常にしなければいけないのか?

もともとZさんは嫌いだったが、益々嫌いになった。
というか、ちょっと(キレる老人、老化の波)来てるかも?と思った。
自分勝手な解釈から、いきなりキレる人がいるが、、、それかも。
こちらもストレスが溜まる。
穏やかな大らかな朗らかな人もいるのに。

Zさんを「距離を置きたい人」認定した。
キレる人は、切りたい。



隣のテーブル、いいな、いいな

2022-05-08 | 
ここ1週間は、アタマと体がぐるぐる洗濯機の中で回っているようなかんじ。
たんに長い休み、GWなんだけど。

いつものマイペースで一人タイムを楽しむ、、、なんてことは出来るはずもなく。
何をするでもないのに、何かに追いかけられているような気分。
ベビー、幼児、小児を交えて移動、衣食住を共にすると、調子が狂う。
一人前の成人、大人枠から外れて、シニア優待枠に入れてもらって、小児枠と同じようなかんじではあるが、似て非なる優待枠。
なんだかなあ、、、。

食事の時は、大概は全員で大部屋だが、たまにオプション別途の場合、小学生男児二人が我々シニア夫婦のテーブルに振り分けられることもある。
小学生が食べたいものを中心に注文すると、なんだか味気ないものばかり。
ちらと隣の長女グループテーブルを覗くと、大人感満載メニュー。
大人が食べたい品々がズラリ。
乳幼児は、お子様ランチなどで賄える。
(一歳児用には、我々の席にチャーハンを取りにきた)

小学生男児二人が長女グループから移ってきた、こちらのテーブルは、、、それに比べ、ラーメン、チャーハン、餃子などのベーシックメニュー。
あとで、男児に「何が美味しかった?」と訊ねると、「ラーメン!」という。
健康的な子供たちである。 
が、隣の長女たちのテーブルに載せられたメニューが豪華で美味しそうだった。

人数で2テーブルに分けると、こうなる。
1テーブル4人ずつ。
(次女一家が引き上げた後は、残り8人)
年齢で分けると、こうならない。
まあ老若混じってそれもよかろう。
でも、美味しそうだったなあ、、、長女たちテーブル、、、。
さらに、全額支払いはこちら、というオチがある、、、が、まあ、それもよかろう。
企画、運営、手配、すべてを丸投げ、おまかせカスタマイズ個人旅行なので、旅行会社に頼むようなもの。
お互い無理をしない流れ。

わたしは、人の食べているものが羨ましくなるほど、まだまだ食べられる体力、気力、、、つまり、健康体を持っていることがわかり、それはそれで、けっこうなことだ。
、、、と、またまた25年ぐらい先の年齢のようなことを書いている。