あはれなり わが身の果てや 浅緑
つひには野べの 霞と思へば
作者 小野小町
( No.758 巻第八 哀傷歌 )
あはれなり わがみのはてや あさみどり
つひにはのべの かすみとおもへば
* 作者の小野小町とは、あのわが国の美人の代表ともいえる『小町』のことである。
美人として名高いばかりでなく、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙などに選ばれている、当時屈指の歌人なのである。
しかし、その正確な伝承は多くなく、それをはるかに上回る伝説化された物語があるため、その実在性が疑われることさえある謎の女性でもある。
生没年とも不詳であるが、平安前期、九世紀の頃に活躍したと推定されている。天皇の御代でいえば、仁明天皇・文徳天皇・清和天皇の頃である。
* 歌意は、「あわれなことだ わが身の果てる先は 野辺にたなびく 薄緑色の霞だと思うと 」といったものであろう。なお、「浅緑」は、薄緑色のことであるが、霞の色ともされる。また、「野辺」という言葉が詠み込まれているので、この霞は火葬の煙を指しているのであろう。
* 「尊卑分脈」という系図集によれば、小野篁(オノノタカムラ・(802~853)従三位参議。この世とあの世を往来していたという伝説の持ち主でもある。)の子である出羽郡司・小野良真の娘とされているようだが、良真という人物は他の資料には全く登場しておらず、活躍したとされる時期も小町と篁は近接しすぎていて、信用しがたい。
他にも、宮廷に仕えている女房などに肉身がいたという記録もあるようだが、いずれも確たる資料とはされていない。
* 生誕地や墓所となれば、共に数多くあり、しかもそれぞれに伝承も残されているなど、いずれも興味深いが、小町の出自や消息を確定させるには無理がある。
また、伝えられている伝承の多くは小町の本当の生涯とはかけ離れたものと考えられるが、別の機会に紹介させていただくことにする。
* このように、歴史上もっとも著名な女性といっても過言ではないと思われる小野小町であるが、生きた時代が平安時代前期の頃ということもあって、確実な資料に乏しく実在を疑われることさえあるが、確実と考えられる資料も少なくない。
「土佐日記」などで著名な紀貫之は、「古今和歌集」の序文において、小町の作風を「『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせている」と絶賛している。仁明天皇の御代の頃、在原成平や文屋康秀などの実在が確実視されている人物との和歌贈答の記録が幾つも残されている事などを考えれば、小野小町が実在していたことは間違いあるまい。
* 絢爛たる平安王朝文化の初期の頃、小野小町という類まれなる美貌とあふれるばかりの和歌の才能に恵まれた女性がいたことは、わが国歴史上の誇りの一つと考えるのは、少々大げさなのだろうか。
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