桜井市上之庄町に鎮座する殖栗神社。
「えぐり」と読む「殖栗」の名はストレートに読めない。
明治7年までは三十八神社と呼ばれていた殖栗神社。
それを示す燈籠は「三十八社」。
丸柱や角柱の燈籠に見られる。
手水鉢には文化四年(1807)六月の日付けが刻印されている。
この日は明日の宵宮に向けて高張提灯を組み立てている総代たち。
雨が降るやも知れないと早めに仕掛けた提灯台。
トノモリサン(十ノ森)にも掲げないと云って走っていった。
トノモリは中和幹線が通ることによって十之森神社を移したという。
戦時中には神社の前に大木があった。
材木屋が伐採したらハライタを起こしたというご神木。
火事になっても焼けなかったと伝わる。
殖栗神社にあったご神木をそこへ移したが育たなくて枯れ木になった。
仕方なく元にあったご神木の土台を移植したそうだ。
三輪恵比寿神社の郷中の一つに挙げられる上之庄町は60軒。
かつての上之庄は二つの地区に分かれていた。
そのひとつに当たるのが古當家講で殖栗神社側の地区。
もう一つは新當家講で東北に位置していたというそれぞれの宮座。
それを示す燈籠がある。
「古當家(ことうや)講中」の文字が刻まれている常夜塔だ。
明治36年に寄進された石塔である。
方角から云えば東北のトノモリサンにあたるのが新當家講だったようだ。
現在の宮座は古も新もなくした村座ではあるが古當家は今でも継承しているという。
トーヤは6軒。芋を炊いて食する座がある。
それが芋座。
旧暦の9月8日の営みである。
昼ころに終える古當家講の行事は公民館。
直会の場である。
トーヤだけの集まりはおよそ20人。
数時間後には村行事に移った。
2回も会食しなければならない村行事。
身体のことを考えて平成24年のこの年からは當家行事と村行事を一体化した会食にしたという旧暦の営み。
かつてはゴザを敷いた直会の場だったそうだ。
いつしか10月1日に移した芋座は村行事。
総意のもとで日曜日にする考えがあるという。
(H24.10.22 EOS40D撮影)
「えぐり」と読む「殖栗」の名はストレートに読めない。
明治7年までは三十八神社と呼ばれていた殖栗神社。
それを示す燈籠は「三十八社」。
丸柱や角柱の燈籠に見られる。
手水鉢には文化四年(1807)六月の日付けが刻印されている。
この日は明日の宵宮に向けて高張提灯を組み立てている総代たち。
雨が降るやも知れないと早めに仕掛けた提灯台。
トノモリサン(十ノ森)にも掲げないと云って走っていった。
トノモリは中和幹線が通ることによって十之森神社を移したという。
戦時中には神社の前に大木があった。
材木屋が伐採したらハライタを起こしたというご神木。
火事になっても焼けなかったと伝わる。
殖栗神社にあったご神木をそこへ移したが育たなくて枯れ木になった。
仕方なく元にあったご神木の土台を移植したそうだ。
三輪恵比寿神社の郷中の一つに挙げられる上之庄町は60軒。
かつての上之庄は二つの地区に分かれていた。
そのひとつに当たるのが古當家講で殖栗神社側の地区。
もう一つは新當家講で東北に位置していたというそれぞれの宮座。
それを示す燈籠がある。
「古當家(ことうや)講中」の文字が刻まれている常夜塔だ。
明治36年に寄進された石塔である。
方角から云えば東北のトノモリサンにあたるのが新當家講だったようだ。
現在の宮座は古も新もなくした村座ではあるが古當家は今でも継承しているという。
トーヤは6軒。芋を炊いて食する座がある。
それが芋座。
旧暦の9月8日の営みである。
昼ころに終える古當家講の行事は公民館。
直会の場である。
トーヤだけの集まりはおよそ20人。
数時間後には村行事に移った。
2回も会食しなければならない村行事。
身体のことを考えて平成24年のこの年からは當家行事と村行事を一体化した会食にしたという旧暦の営み。
かつてはゴザを敷いた直会の場だったそうだ。
いつしか10月1日に移した芋座は村行事。
総意のもとで日曜日にする考えがあるという。
(H24.10.22 EOS40D撮影)