集落の辻に高張提灯を掲げて宵宮の設営に忙しく動き回る甲斐神社の氏子総代。
3年間に亘って甲斐神社の年中行事をも勤める宮守たち。
一老から五老までの5人である。
この日は宵宮。
19時から始まるのだが準備に余念がない。
境内に置かれた提灯台は天頂に幣を挿す。
上から数えて1個、2個、3個、4個。
左右対称に吊られた提灯は合計で20個もある。
それを神楽提灯と呼んでいる台座は古い。
「大正拾貮年拾月拾壹日新調ス 大工北村三四歳」の文字があった。
古い太鼓が据えてあったが打つこともなく境内に佇む。
境内にはもうひとつ。
長さは6メートルにもおよぶ太鼓台である。
高さはおよそ2mもある布団太鼓だ。
傷んでいた太鼓台は11年前に奇麗にされた。
塗りもし直して。以前は祭りが終われば解体した組立式だったが今は固定式。
手すりは金属製で欄間も・・・。
玉姫の姿が彫られている。
青年団が担いでいた40年前。
当時は拍子木を打って練りだした。
信号を越えて城下町の岡町まで繰り出した。
勢いついて池に放り込んだというから相当暴れていたようだ。
布団太鼓のお練りには酒とお摘みを乗せたリヤカーが後方についていた。
休憩の度に酒を飲んでいたから勢いがついたのであろう。
鳥居を潜って宮入りする際には布団太鼓を持ちあげていた。
村人たちはそう話して振りかえる。
神楽提灯も布団太鼓も繰りだすことはしなくなったが、両当番を担う人たちに太鼓料、提灯料と称して2本の酒で慰労する。
かつては盛り花を飾った花飾りの太鼓台もあったそうだ。
作業の合間に参籠所などに掲げられた数々の絵馬を案内してくださったSさん。
一つは右に大きな鷹を描いた絵馬。
両拝殿の間の正面にある。
絵画は薄れて判り難いが松も配置した絵馬は宝暦(1751~)年間だそうだ。
寅を描いた絵馬は寛政年間(1789~)。
いずれも奉納された明確な日付けは判読できない。
三つ目にあるのが神楽提灯と布団太鼓を担ぐ様相を描いた絵馬。
明治9年に奉納された絵馬に描かれた担ぐ人たちの姿は興味深い。
ほとんどの人が髷を結っている。
中には袈裟衣装の僧侶が二人。
明治4年に明治政府が発布した散髪脱刀令(断髪令)以前の姿を描いたものと思われる。
髷を禁じて断髪を強要したわけでなく髪型は自由になった。
さすがに刀をさす人は見られないが、当時の祭りの姿を今に伝える貴重な絵馬である。
明治9年といえば明治4年に発令された廃藩置県令。
その後に縮小されて奈良県は堺県に吸収されて11年間も続く時代に突入した。
復活したのは明治20年になってからだ。
太鼓台の内部には子供が数人。
2人ずつ並んで合計8人の太鼓打ち。
布団太鼓の下に入って「ドテドン トテドン ドンドン」と叩いていたと話すかつての記憶。
子供でなくて大人が叩いていたというから絵馬の様子から変容したのでは・・・。
左右奥にはなにがしかの品物を売る情景も描かれている。
左側は芋か果物のようなものを蓆の上に並べている。
右側は栗のように見えるが・・・。
絵馬は他にも長刀を持つ武士や太鼓橋が描かれた絵馬もある。
富士川の決戦を描いたと思われる絵馬は享保年間(1716~)である。
もう一枚ある絵馬に描かれていたのはモノでもなく合戦でもなく人物も登場しない。
境内に数頭の牛が題材なのである。
黒牛が6頭で赤牛が2頭。
まるで境内に放ったような様相は実にダイナミックな筆さばき。
ハナギはあるが手綱がない裸牛は何を意味するのか伝わっていない。
奉納年が見られない絵馬を外してみようかと云われたが後日の調査とした。
境内には毘沙門堂がある。
そこにも提灯を掲げて参拝者を待つ。
神社祭祀が始まる直前には御供も供えた毘沙門堂の行事は2月の毘沙門天祭。
宮さんの垣結びと呼ぶ行事が行われる。
(H24.10.27 EOS40D撮影)
3年間に亘って甲斐神社の年中行事をも勤める宮守たち。
一老から五老までの5人である。
この日は宵宮。
19時から始まるのだが準備に余念がない。
境内に置かれた提灯台は天頂に幣を挿す。
上から数えて1個、2個、3個、4個。
左右対称に吊られた提灯は合計で20個もある。
それを神楽提灯と呼んでいる台座は古い。
「大正拾貮年拾月拾壹日新調ス 大工北村三四歳」の文字があった。
古い太鼓が据えてあったが打つこともなく境内に佇む。
境内にはもうひとつ。
長さは6メートルにもおよぶ太鼓台である。
高さはおよそ2mもある布団太鼓だ。
傷んでいた太鼓台は11年前に奇麗にされた。
塗りもし直して。以前は祭りが終われば解体した組立式だったが今は固定式。
手すりは金属製で欄間も・・・。
玉姫の姿が彫られている。
青年団が担いでいた40年前。
当時は拍子木を打って練りだした。
信号を越えて城下町の岡町まで繰り出した。
勢いついて池に放り込んだというから相当暴れていたようだ。
布団太鼓のお練りには酒とお摘みを乗せたリヤカーが後方についていた。
休憩の度に酒を飲んでいたから勢いがついたのであろう。
鳥居を潜って宮入りする際には布団太鼓を持ちあげていた。
村人たちはそう話して振りかえる。
神楽提灯も布団太鼓も繰りだすことはしなくなったが、両当番を担う人たちに太鼓料、提灯料と称して2本の酒で慰労する。
かつては盛り花を飾った花飾りの太鼓台もあったそうだ。
作業の合間に参籠所などに掲げられた数々の絵馬を案内してくださったSさん。
一つは右に大きな鷹を描いた絵馬。
両拝殿の間の正面にある。
絵画は薄れて判り難いが松も配置した絵馬は宝暦(1751~)年間だそうだ。
寅を描いた絵馬は寛政年間(1789~)。
いずれも奉納された明確な日付けは判読できない。
三つ目にあるのが神楽提灯と布団太鼓を担ぐ様相を描いた絵馬。
明治9年に奉納された絵馬に描かれた担ぐ人たちの姿は興味深い。
ほとんどの人が髷を結っている。
中には袈裟衣装の僧侶が二人。
明治4年に明治政府が発布した散髪脱刀令(断髪令)以前の姿を描いたものと思われる。
髷を禁じて断髪を強要したわけでなく髪型は自由になった。
さすがに刀をさす人は見られないが、当時の祭りの姿を今に伝える貴重な絵馬である。
明治9年といえば明治4年に発令された廃藩置県令。
その後に縮小されて奈良県は堺県に吸収されて11年間も続く時代に突入した。
復活したのは明治20年になってからだ。
太鼓台の内部には子供が数人。
2人ずつ並んで合計8人の太鼓打ち。
布団太鼓の下に入って「ドテドン トテドン ドンドン」と叩いていたと話すかつての記憶。
子供でなくて大人が叩いていたというから絵馬の様子から変容したのでは・・・。
左右奥にはなにがしかの品物を売る情景も描かれている。
左側は芋か果物のようなものを蓆の上に並べている。
右側は栗のように見えるが・・・。
絵馬は他にも長刀を持つ武士や太鼓橋が描かれた絵馬もある。
富士川の決戦を描いたと思われる絵馬は享保年間(1716~)である。
もう一枚ある絵馬に描かれていたのはモノでもなく合戦でもなく人物も登場しない。
境内に数頭の牛が題材なのである。
黒牛が6頭で赤牛が2頭。
まるで境内に放ったような様相は実にダイナミックな筆さばき。
ハナギはあるが手綱がない裸牛は何を意味するのか伝わっていない。
奉納年が見られない絵馬を外してみようかと云われたが後日の調査とした。
境内には毘沙門堂がある。
そこにも提灯を掲げて参拝者を待つ。
神社祭祀が始まる直前には御供も供えた毘沙門堂の行事は2月の毘沙門天祭。
宮さんの垣結びと呼ぶ行事が行われる。
(H24.10.27 EOS40D撮影)