マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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能勢平野の亥の子

2013年01月11日 07時17分17秒 | もっと遠くへ(大阪編)
オリガミを切り刻んだ華吹雪をぱぁーっと撒いた。

「ほうねんじゃ ほうねんじゃ」と声をあげて玄関扉を開ける。

かつては突然に飛び込んだと話す大阪府豊能郡能勢町の平野地区の亥の子行事。

11月初めの亥の日だった能勢平野の亥の子行事。

現在は翌日が休みの日曜か土曜になるようにしている。

今年は翌日が日曜日の前日。

11月3日の祭日であった。

御幣は子供たちが手作りする。

定規をあてて正確に切り取る5段の幣。

何年か前のときは3段だったそうだが一時的なことであろう。

今年の亥の子に参加したのは16人。

幼稚園の子供は参加ができないから出発を見送る。

シシガシラ(獅子頭)はらんま職人のOさんが作った。

見よう見まねで造った最初のシシガシラは丸太を切り抜いて作った。

どうも違うようだと構造を検証したOさん。

そうしてできたのが組立型のシシガシラ。

数年前までは藁で作ったシシガシラだった。



倉庫に残ってあった藁製のシシガシラを拝見した。

3年前まではモチワラで作った2枚仕立てのサンダワラ(桟俵:俵の両端の円型の蓋)であった。

それが獅子の口になる。

ブリキ(或いはアルミ)金属で作ったノコギリ歯を取り付けた。

頭のツノ(角)は麦わら帽子の頭部分を切り取って被せていたのは雄のシシガシラ。

雌のシシガシラは頭にツノはない。

残っていたサンダワラの獅子頭は朽ち果ててボロボロ姿。

目と口はタコイトで括ったトウガラシ。

菊の花を接着剤で一面に貼りつけて飾っていたそうだ。

名残のシシガシラから元の形を想像するしかないサンダワラ。

これに手を入れてパカパカしていたと蔵出しをしてくださった男性が話す。

歯の色が金色でツノがあるほうをオトコシシマイ。

歯は銀色でツノがないほうをオナゴシシマイと呼んでいた。

そんな話をしてくださったらんま職人はかつて勤めていた会社の同僚部下。

平成24年の5月8日に能勢町長谷で行われたオツキヨウカ、八阪神社の御田植え祭り以来だ。

「うちの子供も参加する亥の子があるんや」と云っていた。

再び訪れた能勢町平野の行事取材。

「ツチ」と呼ばれる藁棒で地面を叩くのは奈良県内の亥の子行事と同じであるが獅子舞が登場することに興味をもったのである。

亥の子行事は夕刻から始まる。



それより数時間前。

特別養護老人ホームの「青山荘」に向かう子供たち。

ホームの建設、そして入所。

それ以来慰問をしている平野の亥の子。

シシガシラに喜んで頭を預ける人もいる。



突然の取材に承諾を得て手を消毒する。

さすがに「カメラの消毒は要りません」の言葉にほっとするが入所者のお顔を写すことは厳禁通達。

一年に一度の獅子舞の演戯にホームの職員たちも撮影に余念がない。



シシガシラの子供から竹で作った幣を受け取った職員。

それはホームの玄関に挿しておくと施設長は話す。

平野の亥の子たちは小学1年生から中学2年生までで年長の子を「タイショウ」と呼ぶ。

小学生までの子供たちは幼稚園児。

近所や親せきに教えてもらって練習をするが亥の子となって巡ることはできない。

そんな子供たちを「ゴマメ」と呼ぶ。

「タイショウ」の云った通りに進行する亥の子行事。

「よう聞いとけ」と云われたものだと話すOさん。

「小学6年生のときは子供が5人。上がおらんかったからタイショウを勤めた」と云う。

亥の子行事をしている能勢の地区では一番早い日になるそうだ。

平野の旧村は21軒。

今では新町の子供たちも参加できるようになって35軒を巡る。

かつては男の子だけで巡っていた。

Oさんがタイショウを勤めたころは既に女の子も行事に参加していたと話す。

かつての亥の子は訪れた家がもてなしをしていた。

処によってはゼンザイを振舞う家もあったそうだ。

亥の日にはボタモチを作って食べていたという時代は随分前のようだ。

それをイノコのボタモチと呼んでいた。

シシガシラの舞いには囃し手が二人。

笛吹きと鈴持ちである。

現在は学校の音楽授業でも使っているリコーダーであるが40年以上も前の笛は横笛だった。

鈴は手作り。

手で振ればシャンシャンと音がする。

竹の幣も手作りだった。

鈴もシシガシラも手作り。

もしかとすればだが、横笛も手作りであったかも知れない。

「青山荘」で慰問を終えた子どもたちは一旦家に戻る。



1時間後に再び集まった地区の公民館。

出発の前のひとときは館内で夕飯。

ほかほかのラーメンや持参したオニギリをほうばって腹ごしらえ。

日が暮れたころに出発する。

この年の「タイショウ」は女の子が二人。

Oさんが製作した木製のシシガシラを持つ。

サンダワラから木製に替っても菊の花が一面にある。

金色のツノがあるほうがオトコシシマイだ。

オナゴシシマイとも唐草模様の風呂敷を付けている。

らんま職を活かして造ったシシガシラ。

さすがに出来は見事である。

鈴と御神刀を持つ女の子とリコーダー吹きの男の子は「豊年」の文字を書いた三角帽子を被る。

御神刀の刀はと言えば、これも手作り。

太鼓と摺り鉦が揃えばまさに伊勢の大神楽だ。

平野の各家を巡るコースは決まっている。

中地区から下地区。

そして上地区を1周するには何時間もかかる。

「うちはいつも遅くて21時頃になる」と云う家もある。

すべての家を巡り終えるのは22時ぐらい。

長丁場の亥の子行事である。



最初の家は決まっていると云って出発した子どもたち。

巡る家の扉を開ける。



「ほうねんじゃー ほうねんじゃー」と声を掛けて家人を呼び出す。

屋内から家人が出てきたら始める獅子舞。

鈴を持つ女の子がツチを手にした年少者に声を掛ける。

「座って」である。

位置につけばせーのーの合図。



「いのこのモチやー 祝いましょ おひつにいっぱい祝いましょ いおぅとけ いおぅとけ」と2回囃しながらツチを叩く。

平野の子どもたちは元気がいい。

亥の子のツチを叩いている間は鈴がシャンシャン。

リコーダーピロピロの音色。

それに合わせて舞う獅子の舞い。

右に左に上下しながら舞う獅子は巧みな動きをみせる。

1曲舞えば目当ての祝儀に小さい子供の順から並ぶ。

手にした子は笑顔。

整列して受け取ったあとは年長者となる。

先輩は後輩のあとにつくのだ。

それこそ「タイショウ」たる者なのである。

祝儀のあとは「もひとつ いわって帰りましょ いおぅとけ いおぅとけ」。

先ほどと同様に獅子舞の舞いとともに囃す亥の子たち。

ありがとうと云って立ち去るが、鈴の女の子が差し出す御幣。



それを受け取る家人。

ありがたい御幣は神棚に供えるという。

獅子の舞いとともにツチ叩きを終えた子どもたちは次の家に向かう。



かつての屋敷は玄関土間が広かった。

ほとんどの家がそうであったと話す。

その時代の亥の子たちは中庭まで入り込んでツチ叩きしていた。

今では改築されて玄関土間が狭い家。

あふれた子どもたちは玄関先で叩いている。

出発した時間帯からはほんのわずか。

すぐさま夜の様相に包まれた平野。

先を目指すが真っ暗ななか。

山を越え、森を越えての家巡り。

道なき道を巡っていくが、照らすライトがなければ崖下へ。

随行する親もいないのにしっかりとした足取りで前を進む。

はぐれてしまえば遭難に陥ってしまうような山麓の地区だが、子どもたちにとっては生活道。

行き慣れた道である。

平野の子供は実に逞しい。

稀には家人が不在の家もある。

呼び声を掛けても出てこない。

次の家に行こうと再出発。

真っ暗な森を戻っていく。

今か、今かと待ちかねた住民。

いつもこの時間ぐらいにはやってくるという。

玄関を開けるときには体制作り。

「ほうねんじゃー ほうねんじゃー」の声に門戸が開かれる。



シャンシャン、ピロピロの音色とともに舞う獅子舞。

嬉しそうな顔はどの家も同じだ。

健やかに育つからと云ってシシガシラに頭を噛んでもらう幼児もいる。

駄賃の祝儀を手にする子供も嬉しそう。

17時半からスタートして終わったのは22時半。



集落34軒も回るから相当な金額の駄賃。

それとは別に祝儀を貰うこともあって合算すれば多寡な金額。

「タイショウ」の思いと計らいで分配するという。

かつての子どもたちはお菓子であったが、現代的な子供はゲームを購入するとも。

走行の歩数はおよそ6300歩。

かなりの距離数である。

親が付いていくこともなく亥の子の行事はこうして終えた。

(H24.11. 3 EOS40D撮影)