昨日も暑かった。この日も暑い日となった。
気温は30度(奈良市・五條市で31.2度)をも超えた全国的な夏日である。
熱中症に注意してくださいとテレビでは報じるが、たまらないほどの暑さに頭がぼやーっとしてくる。
自宅でじっとしているだけでも汗が噴き出る日だ。
染野の傘堂から下っていけば當麻寺の集落が右側に見える。
この日は當麻寺の聖衆来迎練供養会式。
中将姫を偲ぶ練り供養である。
菩薩の導きで生きたまま極楽浄土で往生する姿を具現化した会式である。
毎年訪れる観光客が多くなり、この年は1万人にもおよぶと報道ニュースで伝えていた。
この日は「當麻のレンゾ」と呼んでいたのは染野の住民。
「レンゾ」を充てる漢字は「連座」であろうと話す。
同じように「當麻のレンゾ」と呼んでいたのは大和郡山市の額田部に住むSさんは85歳。
母親の出里が竹之内だった。
そこからはほんの近くになる當麻の里。
子供の頃に連れられて親戚家へ出かけた。
集まった親戚中はレンゾの食事をよばれてからお練りを見にいっていたと話していた。

今でもそのようなレンゾの日を楽しんでいる家があるのかどうか判らないが、ふと見上げた集落の一角に立てていたコイノボリ。
それより向こうに見えるのが當麻寺の三重の塔である。
目を凝らしてみれば並んで立てた支柱には大幟があった。
奈良県内では珍しい武者絵の大幟である。
武者絵の幟は江戸時代までの主流であったようだ。
大和郡山市の番条町の住民が書き遺した『我が家の年中行事とその食べもの』が手元にある。
昭和63年(1988)に発刊されたN家のふだんの生活史である。
5月の節句に毎年揚げたコイノボリ。
その記事中には筆者の自宅に残された大幟の写真がある。
筆者の父親のときのもので絵柄は武者絵だ。
当時は鯉のぼりではなく、武者絵の大幟を立てていたと伝わる。
その幟の下部には申のぬいぐるみを付けて錐にしたそうだ。
戦中、戦前の様子だと思われる武者絵の大幟は県内各地であったろうと推察される記録である。
遠目に映える武者絵の図柄を肉眼で拝見したく、立ててあった家を訪ねた。
突然の訪問にも関わらず教えてくださったご主人は當麻お練りの菩薩講。
お練りをする仏さんに手を添えて歩く役目だそうだ。
8年前に当家に長男が生まれたときに立てた鯉のぼりの支柱は吉野山から伐り出した葉付きだったと話すご主人。
翌年には羽根車に替えるも、毎年掲げてきた鯉のぼりの支柱は傷みが激しくなって、山から吹き下ろす夕方の強い風で倒れそうになってきた。
危険な状態になった鯉ノボリの支柱はこの日が最後のお披露目。
當麻レンゾの日をもって幕を下ろすことにしたと云う。
前日からミニ展示をすることになった県立民俗博物館の館内には大きな幟が立った。
すべてを見ることができないくらいに長い代物はやはり武者絵の大幟。
それとよく似ている大幟が現実に見ることができる千載一遇のチャンスを逃してはならない。
そう思って訪問させていただいたのである。
吉野山の杉を伐り出して運んだトラック。
あまりにも長い木の支柱は30mほど。
荷台には載りきらず、布切れを付けて運んだが、集落までは入ることができなかった。
トラックが停められる場所で下ろしてレッカークレーン車で吊りあげたと話す。
最初の年は杉の葉をつけたまま鯉のぼりを揚げた。
翌年にはそれを伐りとって羽根車に取り替えた。
それから8年間に亘って立ててあった幟は當麻の景観を融合するかのように映し出していた。

「屋根よーりーたーかーいー・・・」と唄っていた幼稚園児も思い出になることであろう。
二つの幟は弟の姿が写るのであろうか、父親の傍にいたお姉ちゃんが目を輝かして笑顔で応えていたことが印象深い。
弟の大幟。実は奈良県産ではなく、九州である。
仕事上に関係があった工場がある九州で拝見した武者絵幟に惚れこんで鯉のぼりとともに立てていたと話すご主人は読売テレビの「「かんさい情報ネットten」で取材を受けた。
17日の放送でその様子を拝見したご主人にこの場を借りて御礼申し上げる。
(H25. 5.14 EOS40D撮影)
気温は30度(奈良市・五條市で31.2度)をも超えた全国的な夏日である。
熱中症に注意してくださいとテレビでは報じるが、たまらないほどの暑さに頭がぼやーっとしてくる。
自宅でじっとしているだけでも汗が噴き出る日だ。
染野の傘堂から下っていけば當麻寺の集落が右側に見える。
この日は當麻寺の聖衆来迎練供養会式。
中将姫を偲ぶ練り供養である。
菩薩の導きで生きたまま極楽浄土で往生する姿を具現化した会式である。
毎年訪れる観光客が多くなり、この年は1万人にもおよぶと報道ニュースで伝えていた。
この日は「當麻のレンゾ」と呼んでいたのは染野の住民。
「レンゾ」を充てる漢字は「連座」であろうと話す。
同じように「當麻のレンゾ」と呼んでいたのは大和郡山市の額田部に住むSさんは85歳。
母親の出里が竹之内だった。
そこからはほんの近くになる當麻の里。
子供の頃に連れられて親戚家へ出かけた。
集まった親戚中はレンゾの食事をよばれてからお練りを見にいっていたと話していた。

今でもそのようなレンゾの日を楽しんでいる家があるのかどうか判らないが、ふと見上げた集落の一角に立てていたコイノボリ。
それより向こうに見えるのが當麻寺の三重の塔である。
目を凝らしてみれば並んで立てた支柱には大幟があった。
奈良県内では珍しい武者絵の大幟である。
武者絵の幟は江戸時代までの主流であったようだ。
大和郡山市の番条町の住民が書き遺した『我が家の年中行事とその食べもの』が手元にある。
昭和63年(1988)に発刊されたN家のふだんの生活史である。
5月の節句に毎年揚げたコイノボリ。
その記事中には筆者の自宅に残された大幟の写真がある。
筆者の父親のときのもので絵柄は武者絵だ。
当時は鯉のぼりではなく、武者絵の大幟を立てていたと伝わる。
その幟の下部には申のぬいぐるみを付けて錐にしたそうだ。
戦中、戦前の様子だと思われる武者絵の大幟は県内各地であったろうと推察される記録である。
遠目に映える武者絵の図柄を肉眼で拝見したく、立ててあった家を訪ねた。
突然の訪問にも関わらず教えてくださったご主人は當麻お練りの菩薩講。
お練りをする仏さんに手を添えて歩く役目だそうだ。
8年前に当家に長男が生まれたときに立てた鯉のぼりの支柱は吉野山から伐り出した葉付きだったと話すご主人。
翌年には羽根車に替えるも、毎年掲げてきた鯉のぼりの支柱は傷みが激しくなって、山から吹き下ろす夕方の強い風で倒れそうになってきた。
危険な状態になった鯉ノボリの支柱はこの日が最後のお披露目。
當麻レンゾの日をもって幕を下ろすことにしたと云う。
前日からミニ展示をすることになった県立民俗博物館の館内には大きな幟が立った。
すべてを見ることができないくらいに長い代物はやはり武者絵の大幟。
それとよく似ている大幟が現実に見ることができる千載一遇のチャンスを逃してはならない。
そう思って訪問させていただいたのである。
吉野山の杉を伐り出して運んだトラック。
あまりにも長い木の支柱は30mほど。
荷台には載りきらず、布切れを付けて運んだが、集落までは入ることができなかった。
トラックが停められる場所で下ろしてレッカークレーン車で吊りあげたと話す。
最初の年は杉の葉をつけたまま鯉のぼりを揚げた。
翌年にはそれを伐りとって羽根車に取り替えた。
それから8年間に亘って立ててあった幟は當麻の景観を融合するかのように映し出していた。

「屋根よーりーたーかーいー・・・」と唄っていた幼稚園児も思い出になることであろう。
二つの幟は弟の姿が写るのであろうか、父親の傍にいたお姉ちゃんが目を輝かして笑顔で応えていたことが印象深い。
弟の大幟。実は奈良県産ではなく、九州である。
仕事上に関係があった工場がある九州で拝見した武者絵幟に惚れこんで鯉のぼりとともに立てていたと話すご主人は読売テレビの「「かんさい情報ネットten」で取材を受けた。
17日の放送でその様子を拝見したご主人にこの場を借りて御礼申し上げる。
(H25. 5.14 EOS40D撮影)