仕事を終えてひと息をつける場所といえば大和郡山観光案内所。
藺町線沿いにある。
滞在しているのは大和郡山ボランティアガイドクラブのみなさんだ。
6月中旬には2回目の再発見コースを案内される。
実施日は平成25年6月12日(水)で、「横田・和爾下神社を訪ねる」をテーマに近鉄筒井駅から横田(辰巳城跡)、和爾下神社、姿見の井戸を巡るコースである。
話は下見をされた(9日)ときに見つけた苗代のお札だ。
一つは横田町のお札。
これはすぐに判る八幡神社のお札だ。
もう一つあったというお札の文字は判然としないが、まぎれもない朱色の寶印。
いわゆるごーさんのお札の印である。
北方遠景に櫟枝町の鬱蒼とした社叢がある。
こちらも八幡神社であるが、横田町ではない。
うっすらとする墨書或いは版木であろうか。
もしかとすれば寺行事のお札と思われる苗代にはイロバナも添えてあった。
寺であれば極楽寺であろうか。
村人に聞かねばならないミトマツリのお札である。
観光案内所で話題になった横田町や隣町の天理市南六条北方は環濠集落。
横田町はかつての治道村の一つにある旧村。
筒井藩に属する両村。
名高い筒井の三家老として知られる松蔵(倉)氏、森氏が居た。
松蔵(倉)氏は横田家を継いで改名した筒井氏の子であろうとされる松倉政秀。
政秀の子が勝重。勝重の子は重政。
いずれも筒井家の重臣として活躍したそうだ。
地元では松倉右近の名で通っているが、実際は誰なのかはっきりとしない。
架空の創作人物とも云われている。
松蔵(倉)一族である権左衛門秀政がモデルであったという説があるが、地元では勝重と伝わる。
一方、森氏(森志摩守好之)は南六条町北方の元柳生が居住地であったとされる。
北柳生と呼ばれていた横田に対して南の南六条の北方は南柳生であった。
横田、南六条北方はかつての柳生の地。
古字は楊生(やぎう)であった荘園。
延久二年(1070)の興福寺雑役免帳に「楊生庄」の記載がある地域はその後の南北朝~室町時代までその呼び名であった荘園である。
ちなみに森氏は正徳三年(1713)ころ、森吉左衛門の代には平群郡立野村の安村氏より魚梁船株を取得して川舟の支配権の半分を入手したそうだ。
南六条の北方は今でも見事な姿をとどめる大環濠集落。
西側から見ればその姿に感動を覚える。
(H19. 6. 5 Kiss Digtal N撮影)
話題はもう一つ。
南六条の北方と南方を東西に分断する街道がある。
県道を拡張する前の発掘調査。
橿原考古学研究所が担当する。
場所はといえば天理市の喜殿町。
当地には八阪神社が鎮座する。
素明講、八阪講、天皇講による営みである神社の行事を教えてくださった。
今年の1月に聞いた村人の話では「掘れども、掘れども砂地だった。何も出なかったんだろう」と話していた。
発掘調査区域は小字辻、十ノ坪だ。
そこから400mほど北上すれば大和郡山市新庄町の枝村になる鉾立の集落。
江戸・元禄時代以前は逆で、新庄本村が枝村であった。
主客転倒した特異な県内の事例である。
集落東側にある南北を貫く街道は古代の街道である中ツ道。
そこにある姿見の井戸が再発見コースの最東端。
喜殿町の発掘調査はその古代の幹道であった中ツ道が焦点である。
出土したのが、飛鳥時代の瓦、奈良時代の須恵器、平安時代の黒色土器に馬の骨や歯、井戸、柱若しくは柵穴(推定)が含まれる中ツ道の東側溝遺構。
堆積した砂はおそらく川跡。
洪水によるものなのか判らないが、ゆるやかな扇状地を流れて溜まった砂であったと推定される。
側溝の幅は2.2m、深さは70cmで調査区域の30mにわたって発見された。
中ツ道の道路部分は幅が23mと推定されている。
昨年の6月に地元向け説明会が行われたが、現場をすぐに戻さなくてはならないため一般向け説明会は実施されない。
平成23年12月には大和郡山市八条町で発掘された下ツ道の現地説明会に立ち寄ったことがある。
そこでも同じように牛や馬の骨が出土した。
東西の側溝の中心点から測った下ツ道の道路幅は23mと推定されている。
東西の側溝の幅は東が7mから11m。
西が1.2mから1.8mであった。
発掘は何らかの工事がなければ陽の眼をみることがないが、街道は古の姿を現在に映し出す。
ボランティアガイドとの話題はつきない大和郡山の歴史や文化は店じまいで時間切れ。
藺町線を北上して帰る。
信号待ちをしていたときに目に入った機械はショベルカー。
数人の人たちが掘って何かを探している。
掘りだされた物品は箱に納めている。
発掘現場である。
壺もでてきたという現場は城下町の北部。
現場担当者にお話を伺った。
発掘調査を担当するのは橿原考古学研究所。
平成23年5月に開催された特別展「「弥生の里-くらしといのり―」で写真協力をさせていただいた。
特別展とリンクした事業であった「矢田丘陵周辺の(弥生)遺跡と農耕儀礼にふれる」では、巡った矢田の農耕儀礼である水口のお札を解説したこともあった。
画期的な事業であったと話す現場担当者の声。
懐かしい協力の件である。
発掘で出てきた物品は江戸時代のもの。
現場は当時の水路だそうだ。
水路といっても当時の下水道。
なにがしかのモノモノを捨てていた、いわゆるゴミ捨て場だそうだ。
陶器かどうか判らないが破片ばかり出土すると話す。
平城京跡に近いこの場は北郡山の交差点。
絶えず渋滞している。
近鉄電車の踏切で車の行列でつっかえるのだ。
藺町線は近年に南北に貫く道が通過した。
流れはいたって軽やかであるが、ここ北郡山の交差点で停まるのである。
遮断機を越えた西側。
天理町辺りからは長時間も待たされる。
城廻り線の都市計画路線は平成19年に案が出て、説明会、縦覧はすでに済んでいる。
遮断機で阻まれる地域は地下空間を貫く幹線道路となる計画である。
発掘調査は短期間。
当地は近くに小学校もある文化地区。
誤って掘った調査地にはまることなく事業を進めたい早急な対応。
数日間で終えるそうだ。
平成24年度の施政方針で述べた「城廻り線と近鉄橿原線の地下立体交差化など、本市の利便性を高めるインフラ整備などに取り組んでいきたい」とある。
同じようなことを平成22年度、23年度の施政方針でも述べている。
城廻り線の拡幅の影響を受けて地蔵尊を移設しなければと云っていた。
発掘調査をしていた北郡山交差点と近鉄踏切遮断機の間にある北郡山木屋ノ口出世地蔵尊の地蔵盆でのことだ。
平成20年の取材で聞いた地蔵尊の移設は都市計画路線の影響を受けて移設先を決めなければと云っていた。
それから5年後、ようやく拡幅工事の着手になったのであろう。
踏切を越えた地は奈良で年初に幕を開けた直後に行われる一番目のオンダ祭がある植槻八幡神社。
在所の植槻町は平城京の裏鬼門。
北郡山においても痕跡があればと願いたいが江戸時代よりももっと深い地帯。
早急な調査期間では深さの探求は間に合わない。
(H25. 5.23 SB932SH撮影)
藺町線沿いにある。
滞在しているのは大和郡山ボランティアガイドクラブのみなさんだ。
6月中旬には2回目の再発見コースを案内される。
実施日は平成25年6月12日(水)で、「横田・和爾下神社を訪ねる」をテーマに近鉄筒井駅から横田(辰巳城跡)、和爾下神社、姿見の井戸を巡るコースである。
話は下見をされた(9日)ときに見つけた苗代のお札だ。
一つは横田町のお札。
これはすぐに判る八幡神社のお札だ。
もう一つあったというお札の文字は判然としないが、まぎれもない朱色の寶印。
いわゆるごーさんのお札の印である。
北方遠景に櫟枝町の鬱蒼とした社叢がある。
こちらも八幡神社であるが、横田町ではない。
うっすらとする墨書或いは版木であろうか。
もしかとすれば寺行事のお札と思われる苗代にはイロバナも添えてあった。
寺であれば極楽寺であろうか。
村人に聞かねばならないミトマツリのお札である。
観光案内所で話題になった横田町や隣町の天理市南六条北方は環濠集落。
横田町はかつての治道村の一つにある旧村。
筒井藩に属する両村。
名高い筒井の三家老として知られる松蔵(倉)氏、森氏が居た。
松蔵(倉)氏は横田家を継いで改名した筒井氏の子であろうとされる松倉政秀。
政秀の子が勝重。勝重の子は重政。
いずれも筒井家の重臣として活躍したそうだ。
地元では松倉右近の名で通っているが、実際は誰なのかはっきりとしない。
架空の創作人物とも云われている。
松蔵(倉)一族である権左衛門秀政がモデルであったという説があるが、地元では勝重と伝わる。
一方、森氏(森志摩守好之)は南六条町北方の元柳生が居住地であったとされる。
北柳生と呼ばれていた横田に対して南の南六条の北方は南柳生であった。
横田、南六条北方はかつての柳生の地。
古字は楊生(やぎう)であった荘園。
延久二年(1070)の興福寺雑役免帳に「楊生庄」の記載がある地域はその後の南北朝~室町時代までその呼び名であった荘園である。
ちなみに森氏は正徳三年(1713)ころ、森吉左衛門の代には平群郡立野村の安村氏より魚梁船株を取得して川舟の支配権の半分を入手したそうだ。
南六条の北方は今でも見事な姿をとどめる大環濠集落。
西側から見ればその姿に感動を覚える。
(H19. 6. 5 Kiss Digtal N撮影)
話題はもう一つ。
南六条の北方と南方を東西に分断する街道がある。
県道を拡張する前の発掘調査。
橿原考古学研究所が担当する。
場所はといえば天理市の喜殿町。
当地には八阪神社が鎮座する。
素明講、八阪講、天皇講による営みである神社の行事を教えてくださった。
今年の1月に聞いた村人の話では「掘れども、掘れども砂地だった。何も出なかったんだろう」と話していた。
発掘調査区域は小字辻、十ノ坪だ。
そこから400mほど北上すれば大和郡山市新庄町の枝村になる鉾立の集落。
江戸・元禄時代以前は逆で、新庄本村が枝村であった。
主客転倒した特異な県内の事例である。
集落東側にある南北を貫く街道は古代の街道である中ツ道。
そこにある姿見の井戸が再発見コースの最東端。
喜殿町の発掘調査はその古代の幹道であった中ツ道が焦点である。
出土したのが、飛鳥時代の瓦、奈良時代の須恵器、平安時代の黒色土器に馬の骨や歯、井戸、柱若しくは柵穴(推定)が含まれる中ツ道の東側溝遺構。
堆積した砂はおそらく川跡。
洪水によるものなのか判らないが、ゆるやかな扇状地を流れて溜まった砂であったと推定される。
側溝の幅は2.2m、深さは70cmで調査区域の30mにわたって発見された。
中ツ道の道路部分は幅が23mと推定されている。
昨年の6月に地元向け説明会が行われたが、現場をすぐに戻さなくてはならないため一般向け説明会は実施されない。
平成23年12月には大和郡山市八条町で発掘された下ツ道の現地説明会に立ち寄ったことがある。
そこでも同じように牛や馬の骨が出土した。
東西の側溝の中心点から測った下ツ道の道路幅は23mと推定されている。
東西の側溝の幅は東が7mから11m。
西が1.2mから1.8mであった。
発掘は何らかの工事がなければ陽の眼をみることがないが、街道は古の姿を現在に映し出す。
ボランティアガイドとの話題はつきない大和郡山の歴史や文化は店じまいで時間切れ。
藺町線を北上して帰る。
信号待ちをしていたときに目に入った機械はショベルカー。
数人の人たちが掘って何かを探している。
掘りだされた物品は箱に納めている。
発掘現場である。
壺もでてきたという現場は城下町の北部。
現場担当者にお話を伺った。
発掘調査を担当するのは橿原考古学研究所。
平成23年5月に開催された特別展「「弥生の里-くらしといのり―」で写真協力をさせていただいた。
特別展とリンクした事業であった「矢田丘陵周辺の(弥生)遺跡と農耕儀礼にふれる」では、巡った矢田の農耕儀礼である水口のお札を解説したこともあった。
画期的な事業であったと話す現場担当者の声。
懐かしい協力の件である。
発掘で出てきた物品は江戸時代のもの。
現場は当時の水路だそうだ。
水路といっても当時の下水道。
なにがしかのモノモノを捨てていた、いわゆるゴミ捨て場だそうだ。
陶器かどうか判らないが破片ばかり出土すると話す。
平城京跡に近いこの場は北郡山の交差点。
絶えず渋滞している。
近鉄電車の踏切で車の行列でつっかえるのだ。
藺町線は近年に南北に貫く道が通過した。
流れはいたって軽やかであるが、ここ北郡山の交差点で停まるのである。
遮断機を越えた西側。
天理町辺りからは長時間も待たされる。
城廻り線の都市計画路線は平成19年に案が出て、説明会、縦覧はすでに済んでいる。
遮断機で阻まれる地域は地下空間を貫く幹線道路となる計画である。
発掘調査は短期間。
当地は近くに小学校もある文化地区。
誤って掘った調査地にはまることなく事業を進めたい早急な対応。
数日間で終えるそうだ。
平成24年度の施政方針で述べた「城廻り線と近鉄橿原線の地下立体交差化など、本市の利便性を高めるインフラ整備などに取り組んでいきたい」とある。
同じようなことを平成22年度、23年度の施政方針でも述べている。
城廻り線の拡幅の影響を受けて地蔵尊を移設しなければと云っていた。
発掘調査をしていた北郡山交差点と近鉄踏切遮断機の間にある北郡山木屋ノ口出世地蔵尊の地蔵盆でのことだ。
平成20年の取材で聞いた地蔵尊の移設は都市計画路線の影響を受けて移設先を決めなければと云っていた。
それから5年後、ようやく拡幅工事の着手になったのであろう。
踏切を越えた地は奈良で年初に幕を開けた直後に行われる一番目のオンダ祭がある植槻八幡神社。
在所の植槻町は平城京の裏鬼門。
北郡山においても痕跡があればと願いたいが江戸時代よりももっと深い地帯。
早急な調査期間では深さの探求は間に合わない。
(H25. 5.23 SB932SH撮影)