5年ぶりに訪問した桜井市の箸中座中の一人であるM家。
箸中地区では神道系の主分講(右座)、仏教系の敬神講(左座)の二組(座)で組織されている。
右座と左座の両座は右座が主分講で左座が敬神講だそうだ。
主分講は宮座講とも呼ばれる。
かつては両座の他に中座があったとされる。
ご主人はこの年が最後で、座中の一老を引退された。
本来ならば終身制である座中。
高齢化になったことから若い人たちへ後継の任を譲ったのである。
正月初めに行われる行事は二日正言講(ふつかしょうごんこう)。
以前は莊嚴講の呼称であった。
その名の通り正月二日に行われている。
行事の場は国津神社。
昔から使っている版木でごーさんを刷る。
「牛玉」、「国津社」、「傳御」の版木の文字は墨を塗ってバレンで刷る。
平成19年にその様子を取材させていただいた。
そのお札(ムシフダの呼称がある)なら何枚かを保管しているという当家。
この年は當家を務めたそうだ。
当家夫妻が話すに墨は竃の煤だと云う。
家にある竃に溜まっていた煤を集めた。
それをお酒で練ったのがごーさん文字の墨であったのだ。
竃は今でも使っている現役。
モチツキの餅米を蒸すときやタケノコを茹でている。
大きな釜だけに使いやすいと云う。
かつての竃は円型の四連であった。
竃に火を点ければ煙があがる。
その煙を屋外に排出するのは「ケムリダシ(ケムリガエシとも)」。
そういう構造になっている建物は当家に3棟もある。
航空写真で捉えた母家の棟並びを解説される当主。
愛知三河沖で地震が発生したときに揺れた母家。
ケムリダシの内部が落下して竃が損傷した。
それで現在の2連に作り替えたと話す。
随分前のことだというから昭和21年(1946)の南海地震ではないだろうかと思ったが、そうではなく記された史料に地震のことが書かれてあった。
太平洋戦争末期、昭和19年(1944)の12月7日の午後2時頃に発生した大地震(東南海地震は当初遠州灘地震と呼ばれていた)は桜井市の箸中、太田、辻の他、田原本町の法貴寺、天理市の桧垣までの広い範囲に亘ったようだが被害状況は記されていない。
およそ100年周期の大地震。
今後、30年~40年後にやってくるかも知れない。
国津神社の祭礼の一つに「くにつさい」がある。
充てる漢字は「九日祭」である。
「くにつ」は神社名の「国津」。
宮座講および敬神講の行事は9日改め29日に移したと云う。
かつていただいた史料によれば「九日講」のようだ。
それによれば九日がいつしか二十九日。
その後に十九日に替ったが、今では10月10日になったとある。
国津神社付近の小字名が気になった。
調べてみれば神社東に堂ノ東とある。
西側は宮ノ西で、その先が堂ノ西だ。
南東が宮ノ前で南西が堂ノ前である。
宮と堂が混在する小字名が示すとおりに神社にはかつてお堂があったと思われるのである。
帰り際に気がついた当家の門屋にあった嫁入りの駕籠。
随分と前の道具だから装飾が落ちて・・と話す籠は何代も前に嫁入りしたときのものだ。
万延(1860~)生まれだった大おばあさんというから江戸時代。
たしか、明治10年(1877)に嫁入りしたときの道具だと云う駕籠は今から137年前。
大切に残されている。
門屋はその昔ではなく昭和の時代の建造物。
駕籠を吊るせるように仕掛けをしている。
もう一方の場にも同じように駕籠を担ぐ棒が挿しこめるような四角い穴が開いている。
(H25. 5.26 EOS40D撮影)
(H25. 5.26 SB932SH撮影)
箸中地区では神道系の主分講(右座)、仏教系の敬神講(左座)の二組(座)で組織されている。
右座と左座の両座は右座が主分講で左座が敬神講だそうだ。
主分講は宮座講とも呼ばれる。
かつては両座の他に中座があったとされる。
ご主人はこの年が最後で、座中の一老を引退された。
本来ならば終身制である座中。
高齢化になったことから若い人たちへ後継の任を譲ったのである。
正月初めに行われる行事は二日正言講(ふつかしょうごんこう)。
以前は莊嚴講の呼称であった。
その名の通り正月二日に行われている。
行事の場は国津神社。
昔から使っている版木でごーさんを刷る。
「牛玉」、「国津社」、「傳御」の版木の文字は墨を塗ってバレンで刷る。
平成19年にその様子を取材させていただいた。
そのお札(ムシフダの呼称がある)なら何枚かを保管しているという当家。
この年は當家を務めたそうだ。
当家夫妻が話すに墨は竃の煤だと云う。
家にある竃に溜まっていた煤を集めた。
それをお酒で練ったのがごーさん文字の墨であったのだ。
竃は今でも使っている現役。
モチツキの餅米を蒸すときやタケノコを茹でている。
大きな釜だけに使いやすいと云う。
かつての竃は円型の四連であった。
竃に火を点ければ煙があがる。
その煙を屋外に排出するのは「ケムリダシ(ケムリガエシとも)」。
そういう構造になっている建物は当家に3棟もある。
航空写真で捉えた母家の棟並びを解説される当主。
愛知三河沖で地震が発生したときに揺れた母家。
ケムリダシの内部が落下して竃が損傷した。
それで現在の2連に作り替えたと話す。
随分前のことだというから昭和21年(1946)の南海地震ではないだろうかと思ったが、そうではなく記された史料に地震のことが書かれてあった。
太平洋戦争末期、昭和19年(1944)の12月7日の午後2時頃に発生した大地震(東南海地震は当初遠州灘地震と呼ばれていた)は桜井市の箸中、太田、辻の他、田原本町の法貴寺、天理市の桧垣までの広い範囲に亘ったようだが被害状況は記されていない。
およそ100年周期の大地震。
今後、30年~40年後にやってくるかも知れない。
国津神社の祭礼の一つに「くにつさい」がある。
充てる漢字は「九日祭」である。
「くにつ」は神社名の「国津」。
宮座講および敬神講の行事は9日改め29日に移したと云う。
かつていただいた史料によれば「九日講」のようだ。
それによれば九日がいつしか二十九日。
その後に十九日に替ったが、今では10月10日になったとある。
国津神社付近の小字名が気になった。
調べてみれば神社東に堂ノ東とある。
西側は宮ノ西で、その先が堂ノ西だ。
南東が宮ノ前で南西が堂ノ前である。
宮と堂が混在する小字名が示すとおりに神社にはかつてお堂があったと思われるのである。
帰り際に気がついた当家の門屋にあった嫁入りの駕籠。
随分と前の道具だから装飾が落ちて・・と話す籠は何代も前に嫁入りしたときのものだ。
万延(1860~)生まれだった大おばあさんというから江戸時代。
たしか、明治10年(1877)に嫁入りしたときの道具だと云う駕籠は今から137年前。
大切に残されている。
門屋はその昔ではなく昭和の時代の建造物。
駕籠を吊るせるように仕掛けをしている。
もう一方の場にも同じように駕籠を担ぐ棒が挿しこめるような四角い穴が開いている。
(H25. 5.26 EOS40D撮影)
(H25. 5.26 SB932SH撮影)