奈良市藺生町(いうちょう)は旧都祁村大字のひとつ。
藺生は訛って「ゆう」と云う人もおられる。
5月初めに天理市山田町で田植えをしていた家族に出合う。
田植え機を操作していた男性。
お互いが顔を見合わせてどこかで見たことがあると思いだす。
ときおり行事取材に訪れる藺生町の人だった。
20年に一度に行われるゾーク(造営)に先だって仮宮に遷した神さんを新築した本殿に戻る。
上遷宮の儀式に是非来てもらいたいと男性Nさんに願われて村行事に訪問する。
拝殿前に掲げた幕は20年前に行われたゾーク(造営)記念に奉納されたものだ。
ゾーク(造営)の祭典(上棟祭)は今年の秋に行われる。
槌に大きな弓・矢がある。
見本に残してあった槌・弓・矢も並べていた。
気になるのは槌の紋様。
打つ部分の絵柄はごーさんの宝印。
すぐ近くに真言宗古義派・青龍寺がある。
同寺では正月初めに祈祷される「オコナイ」行事がある。
版木で刷ったお札をウルシ棒に挟んで奉り祈祷する。
同日は神社前にカンジョウナワを掛ける。
写真はこの日に撮ったものだが、隣村の小夫嵩方との境界にも掛けると聞いているが未だ拝見できていない。
それはともかく寺との関係が深いと思われる槌の紋様は奈良県内の数カ所で見たことがある。
上遷宮が行われる時間帯は夜8時。
この日の朝は葛神社・鳥居前に新設した石橋の渡り初め式を行っていたという。
石の橋は村の人が寄進された。
平成19年より務めている村神主がキリヌサを撒いて祈祷したそうだ。
今年秋に行われるゾーク(造営)を記念に葛神社の略記パンフレットを製作する予定だ。
そのパンフレットに載せる『藺生之庄之祭礼頭之次第』を村人に公開された。
文明六年甲午(1474)十一月九日始之・・より墨書された入頭人の名は昭和15年(1940)まで467年間に亘って延々と記されていた。
元和時代(1615~)までの表記は「入トウ」であったが寛永二年(1625)より「入頭」になっていた。
入頭人の名が判読できた文字に「長吉丸」とか「ちゃちゃ丸」がある。
幼名であろう。
いつの時代かメモ書きを失念したので覚えていないが女児の入頭もあったようだ。
入頭制度は明治38年まで続く。
その後の明治40年10月28日、村座に改正されて大字上・下・並松(なんまつ)の三垣内より一人ずつ選ばれる村神主制度になった。
制度は大正年間に社守(三月初午に社守交代式がある)名に替わり現在に至る。
明治・大正時代ともなれば先代らの名も書いてある『藺生之庄之祭礼頭之次第』は全三巻。
昭和47年に表装を貼り直したようだ。
「文明六年甲午(1474)十一月九日始之并オキテ 一、トウノコトヰゝ(ノ)ツヰトナミタリトテモソノイエニヒトツイトナマス(ツ)ワミナオツヘシ 一、イトナミヰリノトウニワカケコマアルヘカラス 一、コノホカオキテヲソムクヘカラス カタクコノオキテヲ サダムモノナリ 大ろう(太郎) ケン二ろう(二郎)マスイシ ケンシチ ニシノサエモン五ろう(五郎)ノ サウリヤ アタラシノ チフノ カトノ □□(太夫) キクマツ ココ□□(太郎) 二ろう(二郎) キタウラ ヲクノ コンヤウ フチソノ ・・・・」
<要約> 「始まりに併せて頭のことを云う 営みたりとてもその家に一つ 営みは皆するべし 一、営み入りの頭に訳があるべからず 一、この他、掟を背くべからず 固くこの掟を定むものなり・・・」
つまり、座の頭入りの名を代々書き継いできた祭礼頭之文書である。
文書は文明六年より、享禄、天文、永禄、天正、慶長、元和以下、江戸時代を経て明治、大正、昭和時代まで連綿と書き続けてきたが、先の大戦の開戦に伴うように途絶えている。
藺生葛神社は出雲建雄神と菅原道真公の2神を祀ると村神主は話す。
社殿を建て替えるために神さんは拝殿に設えた仮宮に遷されていた。
平成26年7月8日、本殿建替え安全祈願祭を経てその夜に下遷宮された。
今夜は美しくなった本殿に戻られる。
始めに行われるのは仮宮神事。
修祓、宮司一同一拝、仮宮祝詞奏上、遷座乃儀である。
遷座乃儀は一切の電灯を消灯する。
暗闇に浮かぶのは風除けした一本のローソク火だけだ。
「ヲーー」と警蹕を発声しながら神さんがお戻りになられる。
遷幸乃儀は主神に菅原道真公。
厳かに斎行される。
本殿に戻られたら点灯されて献饌乃儀が行われる。
続いて本殿に向かい斎主による祝詞奏上。
玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一同一拝、一同退座されて終えた。
氏子らがいうには今年の秋には藺生の葛神社以外に白石の国津神社や小山戸の山口神社もほぼ同時期にゾーク(造営)をされるそうだ。
(H27. 6. 6 EOS40D撮影)
藺生は訛って「ゆう」と云う人もおられる。
5月初めに天理市山田町で田植えをしていた家族に出合う。
田植え機を操作していた男性。
お互いが顔を見合わせてどこかで見たことがあると思いだす。
ときおり行事取材に訪れる藺生町の人だった。
20年に一度に行われるゾーク(造営)に先だって仮宮に遷した神さんを新築した本殿に戻る。
上遷宮の儀式に是非来てもらいたいと男性Nさんに願われて村行事に訪問する。
拝殿前に掲げた幕は20年前に行われたゾーク(造営)記念に奉納されたものだ。
ゾーク(造営)の祭典(上棟祭)は今年の秋に行われる。
槌に大きな弓・矢がある。
見本に残してあった槌・弓・矢も並べていた。
気になるのは槌の紋様。
打つ部分の絵柄はごーさんの宝印。
すぐ近くに真言宗古義派・青龍寺がある。
同寺では正月初めに祈祷される「オコナイ」行事がある。
版木で刷ったお札をウルシ棒に挟んで奉り祈祷する。
同日は神社前にカンジョウナワを掛ける。
写真はこの日に撮ったものだが、隣村の小夫嵩方との境界にも掛けると聞いているが未だ拝見できていない。
それはともかく寺との関係が深いと思われる槌の紋様は奈良県内の数カ所で見たことがある。
上遷宮が行われる時間帯は夜8時。
この日の朝は葛神社・鳥居前に新設した石橋の渡り初め式を行っていたという。
石の橋は村の人が寄進された。
平成19年より務めている村神主がキリヌサを撒いて祈祷したそうだ。
今年秋に行われるゾーク(造営)を記念に葛神社の略記パンフレットを製作する予定だ。
そのパンフレットに載せる『藺生之庄之祭礼頭之次第』を村人に公開された。
文明六年甲午(1474)十一月九日始之・・より墨書された入頭人の名は昭和15年(1940)まで467年間に亘って延々と記されていた。
元和時代(1615~)までの表記は「入トウ」であったが寛永二年(1625)より「入頭」になっていた。
入頭人の名が判読できた文字に「長吉丸」とか「ちゃちゃ丸」がある。
幼名であろう。
いつの時代かメモ書きを失念したので覚えていないが女児の入頭もあったようだ。
入頭制度は明治38年まで続く。
その後の明治40年10月28日、村座に改正されて大字上・下・並松(なんまつ)の三垣内より一人ずつ選ばれる村神主制度になった。
制度は大正年間に社守(三月初午に社守交代式がある)名に替わり現在に至る。
明治・大正時代ともなれば先代らの名も書いてある『藺生之庄之祭礼頭之次第』は全三巻。
昭和47年に表装を貼り直したようだ。
「文明六年甲午(1474)十一月九日始之并オキテ 一、トウノコトヰゝ(ノ)ツヰトナミタリトテモソノイエニヒトツイトナマス(ツ)ワミナオツヘシ 一、イトナミヰリノトウニワカケコマアルヘカラス 一、コノホカオキテヲソムクヘカラス カタクコノオキテヲ サダムモノナリ 大ろう(太郎) ケン二ろう(二郎)マスイシ ケンシチ ニシノサエモン五ろう(五郎)ノ サウリヤ アタラシノ チフノ カトノ □□(太夫) キクマツ ココ□□(太郎) 二ろう(二郎) キタウラ ヲクノ コンヤウ フチソノ ・・・・」
<要約> 「始まりに併せて頭のことを云う 営みたりとてもその家に一つ 営みは皆するべし 一、営み入りの頭に訳があるべからず 一、この他、掟を背くべからず 固くこの掟を定むものなり・・・」
つまり、座の頭入りの名を代々書き継いできた祭礼頭之文書である。
文書は文明六年より、享禄、天文、永禄、天正、慶長、元和以下、江戸時代を経て明治、大正、昭和時代まで連綿と書き続けてきたが、先の大戦の開戦に伴うように途絶えている。
藺生葛神社は出雲建雄神と菅原道真公の2神を祀ると村神主は話す。
社殿を建て替えるために神さんは拝殿に設えた仮宮に遷されていた。
平成26年7月8日、本殿建替え安全祈願祭を経てその夜に下遷宮された。
今夜は美しくなった本殿に戻られる。
始めに行われるのは仮宮神事。
修祓、宮司一同一拝、仮宮祝詞奏上、遷座乃儀である。
遷座乃儀は一切の電灯を消灯する。
暗闇に浮かぶのは風除けした一本のローソク火だけだ。
「ヲーー」と警蹕を発声しながら神さんがお戻りになられる。
遷幸乃儀は主神に菅原道真公。
厳かに斎行される。
本殿に戻られたら点灯されて献饌乃儀が行われる。
続いて本殿に向かい斎主による祝詞奏上。
玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一同一拝、一同退座されて終えた。
氏子らがいうには今年の秋には藺生の葛神社以外に白石の国津神社や小山戸の山口神社もほぼ同時期にゾーク(造営)をされるそうだ。
(H27. 6. 6 EOS40D撮影)