マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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急変する瀧倉の端午の節句

2016年04月25日 09時14分59秒 | 桜井市へ
この日の昼前に本頭屋施主が家で作った粽を瀧の蔵神社に供えて六人衆が般若心経を三巻唱える。

そう、聞いていた桜井市瀧倉を訪れた。

時間になっても村人は現れない。

どうしたものかと思って前宮司を務めていた一老のI家を訪ねる。

明日から三日間に亘ってアマヨロコビ、毛掛ヨロコビ、虫祈祷をするにはするが服忌の関係で六人衆は4人しか集まれないという。

端午の節句はこの行事の前日に行われるはずだった。

かつて三老を務めていたNさんが亡くなって葬儀をだした。

そのN家は本頭屋施主であるN家。

家で作った粽を神さんに供える役目であった。

服忌であれば行事もチマキも中断せざるを得ない。

権現桜付近に咲いていたササユリ。

すぐ傍にはヤマアジサイも咲いていた。

故人を偲んでいるように思えた。

事情を聞いて二老のO家を訪ねる。

家の畑におられた二老は元気な姿。



奥さんが云うには「えらいことになって死にかけていた」という。

吐血もした病いに大きな手術をした。

体重は7kgも減ったという。

N家は瀧の蔵神社の分霊を一年間守っていた本頭屋。

死去された家で神さんを祀るわけにいかずヤカタごと預かっているという二老さん。

一時的に預かる期間は服忌が明ける百カ日後になるという。

かつては一老家も二老家も粽を作って供えていた。

二老家の話しによれば粽は家に生えているホオノキの葉を使っていたという。

今でもあるはずだと畑の向こう。



竹林の向こう側にあると案内してくださるがそこは藪の中。

ここからは歩くこともできなくなった。

竹を伐採するにもこの身体では無理がある。

村各戸が供えていた粽の葉を求めて二老家を訪ねてきたことがあった。

たしか六老のF家にもあったようだという。

ある家は瀧倉を離れて平坦に下りた。

主を失った家屋にホオノキがあったがすぐに枯れた。

主がいなくなったことを察知したのかどうか判らないが枯れてしまったという。

県内事例で見聞きした粽の餅は茅の葉で包んで、イグサで縛っていた。

奈良市都祁南之庄ではそうだった。

一方、天理市南六条北方や荒蒔ではカシワの葉に包んでいたと聞く。

大和郡山市下三橋ではコモの葉、川西町下永では笹の葉であった。

桜井市瀧倉はホオノキだった。

植生する地域によってチマキの餅を包む葉はそれぞれであることを知った。

身体を壊してからは無理をせずに活きていくことにした二老。



畑に咲いているカキツバタがいいだろという。

これもまた記念の写真。



我が家にもあったミヤコワスレも撮っていた畑にカラスビシャクが出ていた。



いつ植えたのか記憶にないというカラスビシャクは数年前から出始めたようだ。

二老家の畑の際に杉林が林立する。



一本の木に「尾和山」の文字を書いてあった。

誰が見ても判るような大きな文字。

ここは持ち主との境界線。

本家の名を記しているという。

ちなみに同家にはホオノキはあってもホオノハメシのことはご存じでなかった。

若葉を二枚重ねてあつあつご飯にキナコを塗して・・・。

というような話をしたがここら辺りには食べる風習はない。

上之郷辺りすべてではないだろうか。

上之郷より北東部は旧都祁村になる。

そのうちの大字である南之庄では今でもホオノハメシを食べている。

そこからさらに足を伸ばした東山間の茗荷や誓多林でも食べている。

東部の山添村の北野や大塩でもあると聞いている。

植生によって食事の在り方に違いがある。

(H27. 6.13 EOS40D撮影)