隆光大僧正のカラバカを拝見して通りがかった亀畑佐紀神社。
氏子圏は二条町である。
耳を澄ませば境内を箒で掃く音が聞こえた。
おそらく年番さんが清掃をしているのだろうと思って訪れる。
二人の若い男性が小休止していた。
親父さんは年番。
若い男性は息子さん。
親父さんの手伝いに境内を清掃していたという。
そこへ戻ってきた親父さんは年番当役の一人。
年番当役は3人。
6月から9月、10月から1月、2月から5月の期間を分担して月並祭とする神社の清掃にきたと云う。
座小屋の前に置いてあった箱は二つ。
参考までに拝見した箱は「御膳箱」。
神饌を運ぶ用具である。
蓋の裏に墨書で「明治十一年寅(1878)一月日調之 御膳箱 超昇寺村」と書かれてあった。
138年前に調之された御膳箱は今でも現役。
超昇寺村は現在の二条町になる。
亀畑佐紀神社の年中行事は数々ある。
なかでも年に4回はヒトギと呼ぶ神饌を供えている。
ヒトギは生米を砕いて粉にする。
それを水で溶いて形にする。
ヒトギは訛ったようで一般的にいえば「シトギ」。
充てる漢字は「粢」である。
そのシトギはバランの葉に載せて供えるらしい。
亀畑佐紀神社の略歴を参照して書き記しておく。
元禄十三年(1700)の『大和国郷帳』によれば、村高が二十八万石もあった超昇寺村。
寛永十六年(1639)、村を解体し、超昇寺村(現二条町)、山陵村、歌姫村、横領村、門外村、常福寺村、西畑村(古超昇寺村)、山上村(新超昇寺村)の八カ村に村高を分け合ってそれぞれが独立したそうだ。
亀畑の佐紀神社は現二条町の超昇寺村、西畑の佐紀神社は現佐紀西町・西畑の古超昇寺村の鎮守社。
亀畑佐紀神社より分神された西畑佐紀神社の創建は元禄十三年(1700)を想定されている。
なお、超昇寺村は古来より大和郡山藩の所領だった。
明治九年に地租改正。
大和は堺県の管轄になった。
その時代に常福寺村、門外村、山上村(新超昇寺村)、西畑村(古超昇寺村)、超昇寺村が合併されて佐紀村になったとある。
(H27. 6. 7 EOS40D撮影)
氏子圏は二条町である。
耳を澄ませば境内を箒で掃く音が聞こえた。
おそらく年番さんが清掃をしているのだろうと思って訪れる。
二人の若い男性が小休止していた。
親父さんは年番。
若い男性は息子さん。
親父さんの手伝いに境内を清掃していたという。
そこへ戻ってきた親父さんは年番当役の一人。
年番当役は3人。
6月から9月、10月から1月、2月から5月の期間を分担して月並祭とする神社の清掃にきたと云う。
座小屋の前に置いてあった箱は二つ。
参考までに拝見した箱は「御膳箱」。
神饌を運ぶ用具である。
蓋の裏に墨書で「明治十一年寅(1878)一月日調之 御膳箱 超昇寺村」と書かれてあった。
138年前に調之された御膳箱は今でも現役。
超昇寺村は現在の二条町になる。
亀畑佐紀神社の年中行事は数々ある。
なかでも年に4回はヒトギと呼ぶ神饌を供えている。
ヒトギは生米を砕いて粉にする。
それを水で溶いて形にする。
ヒトギは訛ったようで一般的にいえば「シトギ」。
充てる漢字は「粢」である。
そのシトギはバランの葉に載せて供えるらしい。
亀畑佐紀神社の略歴を参照して書き記しておく。
元禄十三年(1700)の『大和国郷帳』によれば、村高が二十八万石もあった超昇寺村。
寛永十六年(1639)、村を解体し、超昇寺村(現二条町)、山陵村、歌姫村、横領村、門外村、常福寺村、西畑村(古超昇寺村)、山上村(新超昇寺村)の八カ村に村高を分け合ってそれぞれが独立したそうだ。
亀畑の佐紀神社は現二条町の超昇寺村、西畑の佐紀神社は現佐紀西町・西畑の古超昇寺村の鎮守社。
亀畑佐紀神社より分神された西畑佐紀神社の創建は元禄十三年(1700)を想定されている。
なお、超昇寺村は古来より大和郡山藩の所領だった。
明治九年に地租改正。
大和は堺県の管轄になった。
その時代に常福寺村、門外村、山上村(新超昇寺村)、西畑村(古超昇寺村)、超昇寺村が合併されて佐紀村になったとある。
(H27. 6. 7 EOS40D撮影)